2018年01月13日

言祝一

 靜の夏休みが近づいたある日、淺間さんがやって來た.今日は平日だが、社長が出張の代休をくれた.淺間は例のごとく手料理の辯當を持ち寄り、二人だけの晝食をする.

「へぇ、なに、これ?キウリの匂ひがおいしさう」
「あぢの酢漬けよ.お刺身用のあぢ」
「これメロン?」
「さうよ.實は主人のボオナスが出たの.主人はかういふのが好きなのよ」
「へぇボオナスかぁ.私もおこぼれに與ろっと」
「これも夕食、二人分.冷藏庫に入れておくからね」

「ありがたう.今晚はご飯炊くだけで濟むは」
「で、靜ちゃんは、何か言ってた?」
「何も言はないけど……」
 實は數日前、淺間がかつの見合話を持って來た.三十に近いかつを心配してのことだ.かつとしても良い話ならと思ふが、心配は靜のことであった.

 靜の母親のタケは退院の見込みが立たない.靜には内緒だが、いつ容態が急變するとも分からない.醫師からはさうおどされてゐた.かつとしては靜を本當の妹だと思ってゐる.たぶん向かうもさう思ってゐるだらう.密かな自負もあった.
 が、當の靜は盛んに自分の身の振りについて豫防線を張ってゐる.母親のタケからさう言ひ含められてゐるのかも知れないが、靜らしい本心にも思へる.
 情が濃やかだが、その分強情なところもあって、親戚を盥囘しにされた揚げ句、カツにお鉢が囘って來た.捨て鉢でふてぶてしく見えるその裏で、どれだけ傷つき涙を流して來たことか.

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2017年09月23日

五五菊しんぶん 十一

「人生は短いが、技術は長い」という言葉がある.もっと長く生きたら、多くの技術を磨き究めることが出来るのに、という嘆きのようなものらしい.ギリシア時代のヒポクレスという医者の言葉だという.

 べートーベンはこの言葉をもじり、「人生は長いが、芸術は短かすぎる」と言ったらしい.苦しい人生の中で、芸術に熱中できる時間が少なすぎる.耳の病気、腸の病気、肝臓の病気と、たくさんの病気を持っていたベートーベンらしい言葉だ.

 しかし、こういう風に人生のつじつまが合わないのが世の中なのではないか.ものごとの平仄が合わないというのはむしろふつうのことなのだ.だから私はこう言う.「人生は短いが、世の中の長さには十分に足りる」と.

 ではみなさんごきげんよう.長い夏休みが短かすぎないように.

(記事 五年五組 藤原しづ)

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2017年08月22日

五五菊しんぶん 十

きのう、先生がソクラテスの話をされた.ソクラテスは、「あなた方は食うために生きているが、私は生きるために食う」と言ったそうだ.

 このふたつの生き方をよく見てみよう.

 まづ「食うために生きる」とは、例えばサラリーマンのように、働く生活をしておまんまを頂くということだろう.働かなければ食べられないから死んでしまうと言う.当たり前の話だ.

 では、ソクラテスが「生きるために食う」とはどんな生き方なのか.食う生活をして生きるということだ.「豚みたいだ」と誰かが言った.ソクラテスはただのた豚なのだろうか.

 人間にとって大切なことはただ一つ.生きることである.裸になって鏡の前に立てば、人間がどんな生き物なのか、よく分かるだろう.眼を開けて匂いをかぎ、息をし、口を開けてしゃべり、物を食べる.次にお乳を子に飲ませ、さらにおヘソの下を見ると・・・

 これが人間である.人間がどんな生活をすべきか、明らかである.人間の体は人間がデザインしたものではない.誰かに作られたのである.人間はかんたんに言えば、食う動物である.生きるとは食うことである.だから食べることが生活なのである.食うために生活するのではない.食うことが生活なのである.楽しく生きるとはおいしく食べることである.

 なのに君たちは食べるために生きている.生きていることは手段に過ぎない.目的のためにしかたなく生活している.何というあわれな人生であろうか.

 そこでソクラテスは言う.「幸せになりたければ、目的など考える前に、今の生活を楽しみなさい.でなければ生きているかいもないだろう」と.

 ここで私は提案したい.ふとったソクラテスになれと.

(記事 五年五組 ソクラテスしづ)

posted by ゆふづつ at 19:38| ノンカテゴリー | 更新情報をチェックする