2011年01月29日

小野 七

 晝食後は美代子も畑仕事へ出た。鐵は町へ用事があると言ひ置き、及川の橋の方へ散歩に出た。緑のそよ風が八重櫻を揺らしてゐる。何か耳の底に低い音がぶぅんと鳴ってゐる。

 美津枝や久代、邊サに芳江、そして雪子と、鐵を暖かく守り育んでくれた人々がゐない。この寂しい世界の底で鳴る低い音だ。やがては藤サや瑶代母も先に往くのだらうか。鐵より一つ上の美代子だって先に往くかも知れない。

 そんな凄まじい世界が突然にやって來る。その恐怖感のやうなものが、常に鐵を迫き立ててゐた。眼下に河川敷が見え、その向かうに市の文化センタアが廣がる。その西端はつい數年前まで鐵達が住んでゐた土地だ。

 父藤サはその土地を小野の市有地と交換し、湯水下の家はごっそりと小野に移築してしまった。今は舊宅の跡が記念碑のやうに鎭まってゐる。それを見下ろすと、自分の標本屍體を見るやうな、懷かしく、痒く、切ない、妙な心地がする。

posted by ゆふづつ at 22:00| 日記 | 更新情報をチェックする