2010年05月30日

蛇の目 八

 ちょっと思想にかぶれたやうな男でな。正月に歸省したはいいが、親から勘當されて頼るところがない。それも包帶をぐるぐるに巻いて、松葉杖を突いたやうな憐れな姿。デモに參加して警官に毆られたと云ってたが、本當は何うだか。親父たちは男の親に義理があって、奴を一月ほど家に置いてやった。

 ところが、そいつが東京へ出たあと、敏子が流産した。病院から報せがあって飛んで行ったら、青い顏で寢てる。一人で川っ縁を歩いてゐて腹を冷やしたらしい。通り掛かりの百姓がリヤカーで運んでくれたから良かったもんの、運が惡けりゃどうなったことやら。敏子は蒔いたヤツが誰か口を割らんが、いづれ出鱈目の宛どころを殘したまま行方知れずだ。

「それきり忘れた振りをして來たし、親父たちも觸れないやうにして來た。しかし病室で一人寢てた、あいつの顏が忘れられん」
 田ノ岡は珍しく呷った。その妹思ひが傳はり、坂前も怒りが込み上げて來た。「夜這ひみたいな風習があったとは聞きますが、やはり親に責任を取らせる譯には行かんのでせうな。しかし恩を仇で返すとは怪しからん男です」

「あいつ、今朝早く飯櫃を返しに來た。元氣がないから、やっぱり振られたのか、駄目だったのかと思ったり。風邪を引いたとかで市役所も休んだ。こんなことは初めてだは。さっきカミさんが覗いたら大したことはなささうだがね」
「さうでしたか。いろいろ自分勝手ばかりで申譯ありません。しかし、この
先の話なら、御心配には及びません。こんな男を信用してくれた彼女には感謝してゐます」
 田ノ岡の話に乘せられた觀はあるが、もう迷ひのやうなものはなかった。

posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする