2010年05月29日

蛇の目 七

 虎風荘の前に田ノ岡が立ってゐた。坂前を認め、長い腕を振り上げた。ダンディな普段着姿が如何にもよく似合ふ。
「やぁ、敏子のやつ、風邪を引いちまってね」
「風邪、ですか」
 坂前は目を落とし、田ノ岡が空の風呂敷を持ってゐるのに氣附いた。

「家内が内職してゐるんだよ。洋服の寸法直しってやつさ、そいつを今、届けて來たところなんだ」
 田ノ岡は風呂敷を拂って見せた。そんなことより昨夜のことが露れたかどうか、そっちの方も氣がかりだ。
「風邪って、如何なのですか」
「それが誰かから感染されたらしいんだよ」
 
 田ノ岡はカラカラと笑ひ、「どうだ、久し振りに飲らんか」
「はぁ、自分からもお話があります」
 どうやら年貢の納め時だ。梅雨も中休み、もう茹だるやうな暑さ。田ノ岡は薄いシャツの胸を摘んで煽り立てた。裏通りにある一軒は名も知らぬが、幾度目かの馴染みだ。

「で、どうだい、敏子との話は進んでゐるのか」
 田ノ岡は冷やしたお絞りで手を拭った。「いや、昨日は何とはなし浮き浮きしてたもんだから、ひょっとしてと思ったんだが」
 兄として尤もな亊だ。坂前は座り直し、ある程度正直を話した。むろん昨夜の玄關での一件、ブードゥードールの件は除いて。

「正直を云ふと、本當に自分の妹かなと思ふときもあるんだ」
 と田ノ岡は笑ふ。さうして、「敏子から聞いてゐるかどうか知らんが」
 そこへ麦酒と枝豆が來た。

「今度の話がどうならうが、俺は變はらんつもりだ、いいか」
 二人は麦酒を酌み交はし、直ぐに胃の腑を揉み解した。 
「あれは終戰の翌年だから、敏子が十九の時の話だ」
 田ノ岡家に二十四五歳の男が寢泊まりしたことがあった、と云ふ。

 
posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする