2010年03月31日

かんな 九

 文子といふ婚約者の死はあっけないものだった。死ぬ七日ほど前、康夫の義姉に些細なことで當り散らし、庭の池の端で大聲で泣き喚いたりした。あとで分ったことだが、御腹の子が雙子の身重だった上に、かなりひどい脚氣の症状があったやうだ。

 亡くなる前の晩も、「あしたは一月の十七日。來年の明日の夜、何處で月を見るのかしら。再來年の明日の夜、十年後の明日の夜。もし月が曇ったなら、何處かで月を眺める人を思ひ出して頂戴」など、芝居がかったことを口走ったと言ふ。もともと小説だの芝居だのが好きな娘だったが、たうとう頭まで毒が囘ったかと、聞いた義姉は思ったさうだ。

 明け方、蟲に知らされた義姉が見に行くと、文子はひどい引附けに痙攣を起こしてゐた。康夫の兄が近くの病院へ走ったが、生憎と内科醫しかをらず、あちこち掛け囘って外科醫を連れて來たときは手遲れ。早産の未熟児二人は、奇跡的に命を取留めたと言ふ。

「康夫の兄貴は、初産だからと産科病院まで手配してゐたのになア」
 義姉さんが文子に、「康夫の母親は厠みたいな狭い産屋で五人の子を産んだ。だからみんな丈夫な子が出來たんだ」
 そんな話をしたことがあると、あとで悔やんでた。

「その雙子の内のお姉さん、ハルミさんといふのが湯殿へ養女に行かれたのですね」
「さうさ。渡邊は手元に置きたくても、獨り者ではどうにもならない。それで近くの知り合ひの夫婦に、初めは二人とも預けてゐた。その内に兼崎の根津の家の方が、どうしても養女にくれと言ふことになって」
 芳江だけ兼崎へ引き取られた。

 この家は久代の遠縁に當り、代々女系で藥種商を營んでゐるが、よく渡邊とも懇意にしてゐるらしい。いづれにせよ赤子二人は、其々子の無い夫婦によく懷き、康夫としても今さら引き取ることが出來なくなった、と藤三郎は言ふ。

posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする