2010年02月28日

ほうけ草 三

 砂巖の敷かれた由水川は次第に太くなり、笠掛盆地の出口で鐵橋と交差する。その流れを見下ろしながら渡ると、羽多岐の驛から北山まで長閑やかな田園が廣がってゐる。その北端にある鄙びた學校が、十二から十六まで、雪子の青春を吸ひ盡くした母校だった。

 父親は無口の職人氣質、母親はそれだけが取り柄のやうに優しい人だから、雪子は笠掛から二驛の學舍で氣儘な羽を伸ばした。それもこれも今の胚胎を作ったと言へるが、誰を恨むことが出來よう。七年前の夢想が消えた代はり、眞冬の凱風が得られたのだから。
 
 湯殿の驛を過ぎると、機關車の喘ぎが激しくなる。汽笛が吼え、密集した市街地を駈け拔けて行く。街竝みが切れると、今度は打って變はって黄、薄茶色の濃淡が續く。田圃、畦道、冬枯れの森、濕原、沼澤が狭い平野を極め込んでゐる。

 やがて笠掛の臺地が現れた。途端に脈打ち、何かが破れた。いまだ清算し足らぬ何かが蠢き出した。學校を卒へたあと、雪子は畑違ひの商社に勤め出した。聲樂のためと學んだ語學が買はれたためだが、當座の腰掛ぐらゐに思ってゐた職場が長續きし、樂器や楽譜、それに蓄音機まで扱ふ仕事に喜びさへ見つけた。

 そこで初めての戀もした。男は外國歸りの畫家で、雪子には本物の藝術家らしい藝術家に映った。繪筆以外のことを知らず、少なくとも藝術家面をした野心家ではなかった。その代はり狂ほしい慾情を剥き出しにしたが、それにもやがて絆されるやうになった。

「お前はピアノに殺されたのではない」と男は云ふ。「お前の指がピアノを拒んだのだ。人は己の息を吸ひ、結ぶ。飢ゑれば喰らひ、戀ふれば殖やし、とき至らば朽ちる。善もなければ惡もない。ただ世があり人がある」

 ところが鐵器の文明が人の世を壞した。文明の服を着た野蠻人が武具と農機を普くし、富を成し、分を作り、國家まで拵へた。これこそ二千年、列島を呪縛した現實である、男は壞れたピアノのやうに吼へた。


posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする