2010年01月29日

野邊 六

 空が白むと、母親は見違へるほど窶れてゐた。娘は目を閉じてをり、厭な熱でも拾ったやうに見える。しかし今は思案してゐる場合ではない。
「金はあるか」
「いいえ」
「ちょっと樣子を見て來る。晝までには戻るから、ここを動かずにな」
 とだけ云ひ遺し、西に向かった。

 丘を下り、街道を渡って、迷はぬやう斜面と原野を右へ右へと進んだ。間もなく滿人部落が見える。金があれば別だが、かうなりゃ仕方が無い。端の一軒へ飛び込んで小銃を翳した。

 痩せこけた爺さんと、孫か曾孫らしい幼女が轉けるばかりに驚くから、出來る限りに愛想笑ひを浮かべ、物を食ふ手眞似。ますます怯えた娘が、しかし賢さうに卓上を指す。蛙の浮いた味噌汁に燒饅頭が三つだ。有り難い。

 饅頭はポケットに、味噌汁は口に流し込んだが、その旨いこと。滋養が胃の腑に染み込む。こんな美味に出逢ったことはない。
「シェシェ、シェシェ」 
 この恩は死んでも忘れんぞと、片手に拜みつつ、村を一目散に飛び出した。途端にバリバリッ、聽きなれぬ自動小銃のやうな音だ。

 手近の高粱畑へ飛び込んで窺ふと、八路軍か、幌の附いたトラックが追ひ駈けて來る。さうは行くかと、背より高い畑の中を右往左往、まるで猿飛佐助だ。つひに母娘のゐる方、山地まで逃げ切った。

 饅頭三個ではどうにもならぬ。が、もう無闇に危險も冒せぬ。來た道を辿りながら、口に出來さうな野草や茸を拾ひ集めた。
posted by ゆふづつ at 22:50| 日記 | 更新情報をチェックする