2010年01月29日

野邊 五

「間の惡い折にと思ひましたが、こちらへ參りましたら、まるで別天地のやう。廣い道に公園のやうな町、内地の有り樣が嘘のやうでございました」
「内地は如何だ」

「それはもう、三月の十日に東京で空襲がございまして、私達は裁判所の官舎住まひでございましたが、そこも燒け出されてしまひました。主人と二人で逃げ惑ひながら、坂道を轉げまして、あまり熱いので用水桶の中に入りました。漬物のやうでございますね。夜空を見上げましたら、燒夷彈が花火のやうに降って參ります。邊りには黒焦げの人も。そのときにちゃうど敵の飛行機が眞逆さまに落ちて來たんです。主人と目が合ひましたら、ぼぉっとして、幽靈みたいな顔。それで、映畫みたいだなと、そんなことを云ふんです」

「東京がなぁ」
 初めて聞く話に藤三郎も魂消た。滿洲どころか、もう歸る祖國が無い。「しかし、どうして、こちらへ」
「夫がこちらの裁判所に轉勤になりました。新京のアパートにをりましたが、ここのところの騷亂になりまして、私と子供たちだけ、この先の村へ避難しに參ったのでございます」

「その村へ歸らうといふ譯だね。分った。明日は俺が負ぶってでも連れてゆかう。今はもう休んだ方がいい」
「どうぞ、私たちのことは」

 しかし女一人ではどうにもなるまい。夜氣に娘の寢息だけ聽こえる。少しでも餘力を作っておかねばならぬ。さう念じて瞼を閉じた。
posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする