2012年08月22日

誤解

「一番下の三惠ちゃんといふのは、どちらかといふと父親の藤サ似かね」

「顏立ちも藤サにそっくりだ。特に目鼻立ち、顏の輪郭など。性格もとらへどころが無いといふか、何を考へてゐるのか分からないところがある。それも何か秘密にしてゐるといふよりは、その場その場に臨機に對應する。しかし、深い考へがないといふ譯でも無ささうなところが難しい」

「それを云ふなら、あの母親もとらへどころの無い人だよ。ただ、無口なだけで、芯はしっかりしてゐるのが分かる。しかしミッちゃんは無口といふ譯ではなく、かなり飄々とした感じだ。この邊が父親似と言はれるんだらう。

 しかし人といふのは難しいよ。長く附き合へば附き合ふほど、だんだんその人が分かって來る。しかしここで全貌を摑んだとは言へないところが面白く、また怖い處でもある」

「人間に限らず、この世のすべてはさうなんぢゃないのか。人はみな自分が誤解されてゐるのを知ってゐる癖に、自分だけは他人をよく理解してゐるやうに思ふ。しかしそんな馬鹿なことはない。自分が誤解されてゐるのと同じぐらゐ、自分も世の中を誤解してゐると思った方がいい」



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2012年08月21日

藤サ

「藤サも大正生まれだが、少々變はり種ではないか」

「變はり種といふより、苦勞して育ったから、物をよく見てゐるよね。あの人の人を見る眼力はよほどのものだといふのは、彼の周りに集まる人間を見れば分かる」

「何だか耳が痛いね。私なんか、つくづく人に惠まれないと思ふことが多いが、それも自業自得って譯だ」

「そりゃ、殘念ながら、さうだ。周りの人間は自分を寫す鏡だと思った方がいい。その鏡が、はたしてそのまま自分を寫したものかどうかは分からないが、さう思った方が人間が磨かれることは確かだ。

 ところが現代にはさういふ視點のある人は少なく、自分も他人も、客觀的な一個の存在だといふ考へが、知らず知らずの内にあるのだね。自分のことは自分がいちばんよく知ってゐる。自分は自分、他人は他人。確固とした存在なのだ。

 だから人の反應を見て自分を知るといふやうな發想がそもそも無い。行き過ぎた客觀主義とでも言ふべきか」



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2012年08月20日

團塊

「昭和五十年といっても、戰後生れはまだ二十代前半だよ。學校を出てからさう幾ばくも經ってゐない。なのに急に社會が變はり始めるといふのもをかしい」

「さうだ。その戰後世代を生み出したのは大正の後半、千九百二十年代生れの世代。彼らは、もう青春時代から國家の戰爭に卷き込まれ、國家とか公に對しては多かれ少なかれ恨み、憎しみ、恐れ、敵意のやうなものを抱いてゐる人が多い。

 その彼らが徐々に世の中に出て來たのが戰後の昭和といふ時代だ。その空氣の成分は、權威に對する懷疑、權力への不信、冷笑と皮肉といったものだっただらう。

 つまり、彼らはその腦髄の奥底に反米、豐さに對する羨望と嫉妬を持ち、また表面的には反國家、反權力といった建前が出來上がってゐる。

 むろん、さうぢゃない人間も多いが、ここは飽く迄全體的な空氣としての話。どんな人間も時代の空氣から完全に自由であることは出來ない」



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