2012年08月25日

物語

「優れた物語作家、紫式部のやうな人は、どんな哲學者や科學者よりも、精緻な曇りない目で“世”の中を眺めてゐた。といふ證據が、あの長い物語の中にある」

「といふより、哲學者や歴史學者、科學者も作家も、物を語るといふ點では少しも變はらない。自然科學は我々の生活に色々と便利だから、客觀的世界を捉へ得てゐるやうに思ふけれども、所詮はこの“世”に關はる物語であるといふ點では本質的に變はりはない。

 それがエネルギーや物質といふ、比較的に計測しやすい現象に關する學問だから、我々の生活に直接に役立つといふに過ぎないのであって、自然現象も人文現象も、戀愛も喧嘩も、我々と客觀的世界の間にあるといふ點では同じなのだ」

「それはユングなどが夙に指摘してゐるが、さういふ意味では自然科學が現代の新たな神話を生み出したと言へるのかも知れない」




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2012年08月24日

見る目

「漢語には、覽る、診る、視る、看る、觀る・・・と色々あり、細かく使ひ分けがされてゐるやうだけれど、日本語には目で物を見るのを表す言葉は、だいたい“みる”で事足りる。尊敬語にして“見す”と言ったり、“みしおこなはす”と言ふ場合もあるが、基本は“み”の一點張りだ」

「それどころか、目で見る場合だけぢゃなく、單に頭の中で思ふ場合にも、また、經驗するといふ意味にも、また、世話を燒く意味にも使ふよ。

 つまり日本語の“み”は、見る對象に深くコミットして、それに懸釣り合ふことを言ふのだ。その場合の懸釣り合ひは、自ら望んだものとは限らず、成り行き上卷き込まれた場合も含む」

「えらい目に遭ふとか、それは俺が見るから君は安心してよい、とか言ふ場合の“見る”は、確かに懸釣り合ひと言ってもよいだらうね」

「古今集、小野小町に、

 見る目(海松布=海藻の一種)なき 我が身を浦と 知らねばや 離(か)れなで 海人の 足弛(たゆ)く來る

 といふのがある。我が身を海松布(見る目=逢ふつもり)のない浦と知らないで通って來るのか。海人が諦めて離れることもなく、足がダルくなるほど通って來る、といふ、美女小野小町らしい歌。
 
 ここでは、“見る”が女をモノにするといふ意味で遣はれてゐる」



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2012年08月23日

みる

「日本語の“みる”に當る漢字は、よく使はれるものだけでも澤山ある。一番基本的なのは“見”で、まさに目玉おやぢの圖だ。

 ただ、この“見”は日本語の“みゆ(みる)”と違って、ただ目に物が映るといふより、見たあとに“解釋”や“覺(さと)り”のやうな知的作用を伴ふことが多い。それは“見”を含む熟語、“見解”“見識”“見地”などを見れば知られる。

 實際、物が何であるか分からず、ただボヤッと“何だらう”と見てゐても仕方がない。それが例へば“枯芒”だと分かって、やっと安心する譯である。

 しかし、日本語の“見え”は、非常に消極的だ。例へば、源氏物語に、

 つらつき まみなどは いとよう似たりしゆゑ かよひて“見え”たまふも 似げなからずなむ など聞こえつけたまへれば 幼心地にも はかなき花紅葉につけても 心ざしを“見え”たてまつる

 とある。簡單に現代語譯すれば、 

 貴女は この子の母親に 顏だち 目もとなどが よく似てゐるから あなたが この子の母親のやうに この子には“見える”のも 別に不思議なことではない などとミカドが仰るので この子も 幼な心に 花や紅葉にかこつけ 中宮に そのお氣持ちを“お示し”になる

……この最初の“見え”は“中宮を見てゐると、この子の母親に似てゐるやうに見えてしまふ”といふ意味である。そのやうに判斷したといふより、否應もなくさう見えるといふ、消極的な認知であり、そこには自分が判斷したといふより、自然にさう見える、さう見ざるを得ない、といふ感じが強い。

 後ろの方の“見え”も、敢へて直譯すると、“その氣持ちを中宮にお見せする”といふ意味だから、“見る”主體は中宮であり、中宮は“氣持ちを示される”被害者側である。

 日本語の“見ゆ”は、そのやうに非常に消極的、受け身なのである」




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