2012年08月28日

あの世

「木造の建物といふのは生き物のやうに變化するだらう。ときどき手を入れないと長持ちは難しいんぢゃないか」

「さうかも知れない。しかし親父が死んだらもう無理だな。下手な大工に弄られるより、あのまま放って置いた方がいいと思ふ。親父もそれを覺悟してゐただらう。だからあれが最後の仕事だったんだ」

「文化の中には、さうして繼承されないまま滅んて來たものが澤山あるんだらう。或は千年もしたら、今の文化も歴史もほとんど全部忘れられてゐるんぢゃないか。寂しいが仕方のないことかね」

「その寂しいのも、我々が世界といふものを單純に捉へ過ぎてゐるからだらう。今は自然科學の世界でも、この世界は無數の小宇宙が無限に生まれてゐると考へる説もある。

 この世は人間の想像を遥かに超えた神秘の世界なのだ。我々の歴史や文化が消えることだって、本當はどういふことなのか、よく分からない。人間が死んだらどういふことになるのか、それも想像さへ出來ない闇の闇の中にある」



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2012年08月27日

遺産

「親父は、好きなやうに生きてゐたから、もう自分の先が無いことはよく知ってゐたのだらう、川邊の家を建て直し始めた。

 材料は自分の昔の知り合ひに頼んだり、藤サに頼んだり、また御堂橋のケンちゃんに取り寄せて貰ったりと、かなりの高級材を、ほぼ只で手に入れてゐた。

 親父にすれば、大工としては最後の仕事のつもりだらうから、本當に自分の好きなやうに仕置きをしたやうだ。まづは廣い土地の端に假屋を建て、そこを假住まひにし、材料集めから始まって、それでも三年の餘はかかっただらうか。ほとんど一人で建ててしまった。

 お袋が、何時出來るんだ何時出來るんだと尋いても、煙草を吹かしながら、顎を撫でてゐる。本當に道樂で建ててゐるのが分かった。今、あれと同じ家を注文したら、多分億といふ金を出しても無理だと思ふよ。だいいち、親父のやうな職人がもうゐない。あんな檜や杉の一枚板も手に入らないだらう。

 俺ぁそんな高級住宅とは知らないから、隨分亂暴に住んでしまったが、いまだにガタ一つ來ないのを見ても、親父の技の凄いのが分かる」

「親父さんの後を繼がうとは思はなかった?」

「親父が生きてゐたら、さう思っただらうけど、お袋が一人で殘されたからね。修行に出るのはとても無理だった」



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2012年08月26日

父親

「お父さんは、優しかったかい」

「優しかったといふより、俺にとっては神樣みたいな人だった。朝起きると、もう出かけてゐる。偶に大工仕事を頼まれることもあったが、それも餘り引受けなくなって、瓢に酒を入れて、釣りをしたり、歩き囘ったり、何をしてゐるんだか、よく分からなかった」

「それは本當に神樣だ。可愛がってはくれたんだらう」

「そりゃぁね。子供心にはよく分かった。學校でな、お前ぇんちの父ちゃんは、本當の父ちゃんぢゃねぇって言はれて、家に歸って親父に聞いたことがあるんだ。そしたら親父は、お前はどう思ってるんだ、って聞く。

 それでお袋の顏を見たら、父ちゃんに決まってるだろ、って顏で睨むんだ。だから、父ちゃんは父ちゃんだ、って言ったら、オヤジはニコッと笑って、お前はいい子だ、って。もうそれからは親父の詮索はしないことにした」



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