2012年08月31日

「お母さんは聖田の生まれなんだらう」

「それがよく分からない。祖母が聖田に住んでゐたことは確かなのだが、それもひと月とか半年とか、借家住まひをしてゐたらしい。何の爲に聖田に來たのか、どうして離れたのかもよく分からない。お袋もその話はしたことが無いんだ。

 おそらくは子供時分には餘り樂しい思ひ出が無かった。親父が生きてゐる頃も、その後も、昔のことは話したことが無い」

「そんなら私から話してもいいかい。お前さんの祖母ぁちゃん、タケさんと言ったね。お前さんの母方の家は元々は川練藩の家老の家格だったやうだよ」

「それは少し聞いたことがある。今の川練の學園長はお袋の伯父の從兄らしい。會ったことはないけど」

「維新後は軍人になったり、目が惡ければ教師になる人が多かったさうだ。タケさんも戰爭がなければ女學校を出て教師にでもなったんだらうけど、若い内に結核を煩ひ、その入院中に空襲で大怪我をして跛行になっちゃった」



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2012年08月30日

母親

「お父さんが亡くなったのは學校へ上がって間もない頃だらう。お母さんも外へ働きに出る時間が長くなったり、生活ががらっと變はったのぢゃないか」

「本當にがらっと變はったね。内のお袋はああいふ性格で、もともと教育熱心ぢゃなかったけど、親父が死んでからは教育のキョの字もなくなった。

 まぁ、こっちも生意氣で、お袋のことは餘り尊敬してなかったから、教育も糞もなかったといふのが本當のところだらう。家の中は普通の母子のやうな關係ぢゃなくて、何といふか年の離れた小母さんと小生餓鬼が共同生活を營んでゐたといふやうな感じだったかなぁ」

「よく言ふよ。しかしお母さんのことは好きではあるんだらう」

「そらぁね。しかし、子供の頃は自分の母親を恥ぢてゐるやうな處があった。何たってああいふ母親だ。いはゆる普通の母親みたいなお母さんに憧れる氣持ちが強かった」

「そんなお母さんがあるものか。靜さんみたいな好い母親はさうさうゐないと思ふよ」



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2012年08月29日

バウムクーヘン

「さうか。この世は闇の闇の中にあるんだ。しかし、我々の心は、何か、唯一の世界像といふものが無いと安心が出來ない。さうして創造されたものが神話なり歴史なりといふものかな」

「神話や歴史も、我々の個人史と本質的には變はらないよ。個人史は今の自分を作りあげてゐる全てと言ってよい。もし我々が完全な記憶喪失になったら、友人の顏を見ても、母親の顏を見ても、妻や夫の顏を見ても、何も思はないだらう。それはもはや以前の自分ではない」

「神話や歴史は、一つのネイションや民族に纒はるものだが、一人一人の個人にも纒はるといふ點では、個人史と變はらない、といふ譯だね。確かに、ある人にとって歴史は醜惡なものであり、祖國愛は拒絶すべきかも知れないが、八割か九割の人にとって、それは多かれ少なかれ郷愁を伴ふ安住の地にもなってゐる譯だ」

「我々の腦は、中心部から次第に發達して來たものらしいが、我々の精神も、中心部から次第に邊縁へといふ風な多層構造になってゐるのかも知れない。さうすると、歴史とか神話とかいふのは、その大半が無意識部分を占め、個人の歴史よりもよほど内側にへばりついた、我々の精神の根源を占めるものではないか」

「いや、むしろ。本當の歴史や神話は完全に無意識の領域にあるのだらう。物の本や學校などで習ふ歴史や神話は、相當に外側にある意識的な部分だと思ふ。我々はそれを否定することも出來るが、心の内側にある深層部分は、破壞したり模樣替へしたりすることが出來ない」



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