2012年07月19日

御食津大神

「ところで、伊勢神宮には天照大御神をお祀り奉る皇大神宮と、豐受大御神をお祀り奉る豐受大神宮の正宮があるよね。俗にいふ内宮(ないくう)と外宮(げくう)だ。天照大御神ぐらゐは知ってゐる人でも、この豐受大御神は聞いたこともない人もゐるのぢゃないか」

「もし丸一日でも豐受大御神の御惠を受けなかったら、自分が如何に恩知らずだったかを身を以って知る筈だ。人は自分が受けた恩はそれが大きなものである程、忘れてしまふことがある。

 この豐受大神は御食津大神とも申し、天照大御神が高天原で祭らせ申し上げた神に坐し、代々の天皇もづっと祀らせ給ふ、重く尊い神樣」

「つまり、食べ物の神樣だといふことだね」

「この食べ物ほど、今は輕んじられてゐる惠はないのではあるまいか。過度なダイエット、拒食、またその反對の無闇な大食ひ、好き嫌ひ…すべて心の變調をもたらさずには濟まないだらう。

 水や必要な榮養素を含んだ食べ物、御食(みけ)ほど尊い御惠、御寶は少ないだらう。早い話が、食べ物がなければ民主主義も人權も平和も、もちろん藝術もスポーツも繪に描いた餅に過ぎない。すべては食べ物が滿たされたあとの話なんだよ。死刑囚でさへ、執行の直前に最後の食事が與へられることが多い。

 むろん、食べ物があっても酸素がなければエネルギーが燃やせず、また二酸化炭素がなければ穀物も育たないが、それも食べ物をエネルギーに變へ、また食べ物を作る材料であるに過ぎない。太陽の光でさへ、食べ物を作る材料になってゐると言っても過言ではあるまい。

 こんなことは知識としては誰でも知ってゐるだらうが、誰もが日常の生活の中で忘れてしまひ、ついなほざりにしてしまふ。日本人は食品の三分の二はゴミにしてゐると言はれ、コストや經濟効率にばかり氣をとられてゐるのだ。かういふ増長漫が氣づかぬ内にどんな精神的荒廃を齎すか。周圍を見囘して氣附かぬことはないか。御食津大神は食べ物そのものである。

 伊勢神宮がお祀りする大神が何であるかに思ひ至れば、この神宮が古くから神社の中でも別格に神聖視され、國家鎮護の要として崇敬されて來た、その譯が納得出來る筈だ」



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2012年07月18日

ナマ

「分かった。今の人間は、たかだか數千年前の先祖の信じてゐたものをそのまま信じることが出來ず、自分たちなりの理解が出來るものしか受け入れないおナマになってゐる、と言ふのだね。

 確かに。今は西暦二千十二年だけれど、これが西暦五千年ぐらゐになると、今、ふつうに我々が言ってゐることも全く理解不能なものとして、三千年前の日本人はかういふ馬鹿なことを言ったり信じてたりしたんだ、なんてなことを學校で教へるのかも知れないね。

 いや、もうその頃は學校なんかないか。三千年前は學校などといふものを作って、教科書といふ紙にインキのシミをつけたものでものを教へ、それで利口になったつもりでゐたんだからをかしいよね、なんて笑ってゐるんだらう。

 しかし、これはこれで仕方がないはな。ものは順繰りといふことがあるから。自分がしたことは人からもされる。文句は言へないってことだ。

 ならば私も暫くは素直にして、三千年前の人々に謙らうぢゃないか。で、その天照大御神は空に輝くあのお日樣のことで、高天原は空の上にある宇宙空間のことだと素直に信じることにする。

 また伊勢の内宮に祀られる御神體の八咫鏡は、天照大御神が邇邇藝の命に、“吾が御靈として、吾を齋き祭る如く、この鏡を齋き祭れ”と、授けられたものなんだね」


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2012年07月17日

コモンセンス

「つまりは、神話を讀むのに、ガタガタ下らない小理屈は言ふな、といふことだね。

 例へば、天照大御神は實は卑彌呼のやうな女權力者を太陽に譬へたものだとか。或は高天原が實は奈良の都、或は新羅の首都金城のことだとか」

「さういふ理屈は、もうすでに學者の慣ひばかりぢゃなく、普通の現代人に迄影響してゐるから、今の歴史物の通俗本でも、みな、その類のしたり顏、ドヤ顏の説が多い。

 そもそも昔の人は、さういふ喩へ話のやうな小洒落た抽象論には無縁なのだ。“たとへる”といふ日本語も、同じ仲間の中からサンプルを出すといふ意味であるから、そもそも恒星なる概念の無かった頃は、太陽は天に一個しか觀測されない筈で、同類も何もないんだよ」

「それはちょっと違ふと思ふけど」

「まぁそれはいいが。一つ。現代人がひどく重んじてゐる論理も、人間の頭の中だけにある思考の癖に過ぎないといふことは辨へておいた方がいい。例へば、A=B、かつB=Cなら、必ずA=Cであることは子供でも知ってゐるが、なぜA≠Cではいけないか、その“論理的”説明は誰も出來ない。

 自然科學も、それを使へばエネルギーを變換することも出來るし、戰爭にも有利だから使ってゐるだけで、人類の歴史は自然科學といふ學問の無かった時代の方が遥かに長い。自然科學が本當は何かについても、誰も知りはしないし、自然科學があれば我々自身のことが分かるといふことも、現在のところ全く無い。

 つまり、我々が物事を判斷する最後の據り處は科學でも學問でもあやふやな事實でもない。人類が誕生以來使って來た“常識”=“まごころ”や“なほびたま”しかないといふ驚くべき眞理を認めるべきなのだ」



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