2012年07月28日

和魂

「結局、常識といふことになるのかい」

「その場合の常識といふのは、我々がもって生まれた思考や感情の型といふべきもの、それを失ふと狂ってしまふもの、のことだ。それが正しいかどうかなんて關係がない。

 例へば、どんな人間も自分の言語を一つだけ持ってゐるが、それは自分の意思で選んだものぢゃないのが普通だ。しかし、十歳を過ぎると、もう變へることが出來ない。言語の習得には適時性といふものがあり、5歳から10歳餘りの間にしか頭に入らないからだ。

 この母國語は、假に氣に入らなくても、死ぬまで使はなくちゃならない。もしどうしても好きになれないといふなら、その人は“絕對”に眞面な人間にはなれない。さういふ恐ろしいものだ。

 常識は、この母國語を主要要素とするが、他にも理性や感性、認知の仕方と、色々なものを含んでゐる。いはゆる紫式部は、この常識のことを“やまとだましひ”と表現した最初の日本人だ。さうして、紫式部の生きた平安中期を、“學問があれば大和魂も活かし易い世の中だ”と云った」

「つまり逆に言へば、學問がなくても大和魂=常識さへあれば生きて行ける、といふことかい」



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2012年07月27日

駄目詰まり

「俺が今見てゐる世界は、俺にしか見えない。それを“世”と呼ぶことにしよう。言ひ換へれば、一人一人の獨占物である主觀的經驗とでも言ふべきかな。

 そして、客觀的な物質と、この主觀的な“世”は、やはり別物と考へざるを得ない。この考へ方は一種の二元論だよ。

 しかし、さう考へたとしても、この物と“世”は、全く無關係な別物ではない。我々が常識的に、我々の“世”と物質は同じものと考へてゐるのは、やはり偶然ではない。これが、物と世の正直な關係を表してゐるとは言へまいか」

「同じものではないが、全然別のものとも考へないといふ譯だね。それは、例へば、太陽と地球のやうな關係だと考へればよいかな。

 太陽と地球とは別の物には違ひないが、もし太陽がなければ地球は今と違う樣相を持った氷の星に變はるだらう。おそらく生物もゐない死の世界になるかも。だから地球は、多分に太陽に依存して今の狀態を保ってゐる譯だ」

「ただ、その場合は、物と世の關係を精密に調べる必要があるだらう。“世”はどこまで我々の自由、或は無意識にせよ我々の恣意によって左右出來るのか。もし百%物質に左右されてゐるなら限りなく唯物論に近づく。もしほとんど物質に左右されてゐないなら、觀念論に近づく」

「ぢゃぁ、結局さういふ抽象論ぢゃなく、我々の“世”だけを素直に考察したらどうだらう。いったい有るか無いかも定かではない物などを考へるから哲學が混亂する譯で、いっそそんなものは無視したらいいと思ふ」 

「それは結果的に觀念論と同じになり、我々の常識に反するといふ批判には堪へられまい」


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2012年07月26日

ボロット

「しかし、この世には單なる物、或はエネルギーのやうなものしかない。それが腦髄を作って、我々の意識を作り上げてゐるだけかも知れない」

「その考へも無論成り立ちはするだらうし、實際、さういふ風に考へる人も多い。ただ、意識はどう作り上げても、絶對的な個別性を有するので、素粒子やエネルギーには普通に見られる代替性、無個性と相容れないやうな感じはするよね。

 例へば、ここに私の完全な複製品があるとして、そいつの頭痛は私には感じられない。そいつの失戀は私の失戀ではない。そいつの知識は私の知識にはなってゐない。

 人間の魂は、どうも孤獨なやうだ。人と共感することも出來るが、他方では冷淡でもあり得ることが魂の特性であるやうに思へる。唯物質しかないといふ考へ方を取るのは難しいね」

「確かになぁ。ロボットに痛みや愛情などの感覺や感情を生じさせることが出來るとの考へもあるが、それがただの反射、現象に過ぎないか、それとも我々の意識と同じやうな内實を持ったものかどうか、それは確かめやうが無い。他方では植物や下等な動物にも意識はあるのだといふ考へも、それを檢證するのは不可能であるやうに思へる」

「そんな小理屈以前に。もし今我々が見てゐる世の中が腦髄といふ物質の創りだしたものだとすれば、この問題の答も腦髄が勝手に決めるのだらうから、我々がごちゃごちゃ言っても始まらないのぢゃない?」


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