2012年07月31日

ミニ世界

「つまり。我々の常識に從へば、最も素朴な二元論になるといふことだ。つまり、魂と世と、この二つの言葉が表すものが存在するのであり、両者は非常に密接な關係を持ちながら、なほ別個のものである、と。

 これをデカルト風に言ふなら、吾思ふ、ゆゑに吾あり、といふ場合の吾が魂であり、思ふ客體が世といふことになるのかな」

「知らん。しかし、世といふものは、普通、現代人が考へる物質、つまり人間が存在する以前から存在する客觀的物質世界より、遥かに我々に近いものだといふことは注意すべきだ」

「もう少し分かりやすく説明してくれるかな?」

「例へば、歴史といふもの。これは最近は色々な考古學的な手段で、繩文時代の人はこんなものを喰ってゐたとか、纒向遺跡は、三國志の言ふ邪馬壹國の時代にほぼ重なってゐたとか、色々なことが分かって來たが、我々が歴史の全貌を觀る事は出來ない。これは誰も認めざるを得ない。

 しかし、このことは一人歴史のみではない。例へば、今、目の前にゐるあんたのことも、例へばその胃袋の中に何が入ってゐるのか、あんたが本當は何を考へてゐるのか、それも分からない。翻って考へて見ると、俺も、この俺自身を自由にコントロール出來ないことをよく知ってゐる。

 そして、このことは、我々がいくら努力しても、本質的にはどうしやうもない。つまり、我々の見ることの出來る“世”は、いはゆる客觀的に假定される宇宙より、遥かに小さいといふことなのだ」




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2012年07月30日

魂と世

「魂と世とは別々の言葉だよね。魂は人の意識主體、世は人の意識の客體とでも言ふかね。

 さうだとすると、魂と世といふ異なる語がある以上、やはり両者は別個のものである、と我々の常識は考へるだらう。

 しかし魂が世の存在に左右され、悲しんだり喜んだりすることも確かだ。つまり魂と世とは相互に影響され合ふ、謂はばある種の依存關係にあることも確かだらう」

「つまり、例へば酒に醉へば物がぐにゃっとして見えるし、逆にまた美人はブスよりも賢く見えるといふやうなことか」

「この魂と世の關係について、両者を切り離す考へ方と、或は一方を他方のコピー若しくは反映と考へる考へ方もあるね」

「両者が全く無關係なものとすると、それこさ我々は早く悟りを開き、いちいち世の中のことに一喜一憂すべきぢゃないだらう。しかしそんな人生は生きる甲斐もない。人生、悲しみがあるか樂しみがあり、歡こびがあるから憤ることもあるのさ。

 また、もし、一方が他方のコピーだとすると、そんなコピーまで作って我々を惱ませる神樣もいよいよ頼りない。そもそもコピーなんぞオリジナルより落ちる譯だから、無視するべし。そしてもし無視するなら、それは唯の唯物論または觀念論と紙一重だよ」



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2012年07月29日

世と魂

「結局、我々が造られた存在だとすると、その“常識”も初めから仕込まれてゐる譯だ。これは、一面がっくりすることだけれど、反面、くよくよせず、ひたすら造物主におすがり申し上げればいいといふ、ある種、安心の境地にはなるかも知れないね」

「しかし、日本神話の造物神=タカミムスビの神、カミムスビの神の二神は、神學に出て來るやうな“分かりやすい”神樣にはおはしまさず、全く人間の理解を超えた神樣だ。さういふ神樣におすがり申し上げるといふのは…」

「ニーチェの云ふ運命愛みたいな?或は佛教に云ふ他力本願?」

「知るか。ともかくも、我々はいま眼の前にある世界=“世”と、それを見て恐れたり喜んだりしてゐる自分自身=“たましひ”しか、確かなものがない。この確かさを實在性と呼ぶとすれば、“精神=魂”と“物質=世”の實在性は明らかと言ふべきなのだ。その意味で唯物論も觀念論も我々の常識が受け入れることは出來ない。

 つまり、世が魂を生むのか、それとも魂が世を生むのか、といふ議論は無意味であり、両者の實在を肯定した上で、次に両者の關係を考へることになる」




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