2012年05月28日

「一に曰く、和(やはらぎ)を以て貴しと爲し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆黨(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或ひは君父(くんぷ)に順(したがは)ず、また隣里(りんり)に違(たが)ふ。

 然れども、上(かみ)和(やはら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、すなはち事理おのづから通ず。何事か成らざらん」

 日本文化の根本は、この和(やはらか)といふことなのだ。源氏物語は、

 すべて女は やはらかに 心うつくしきなむ よきことと

 薫の中納言に語らせてゐる。“やはらか”は、古くは、女のみならず、人のあるべき姿と考へられてゐた。 “やは”な狀態を言ふ。現代語の“やんはり”。穩やかで角張らない樣。

 だだのグニャリとした狀態ではない。金屬や岩石のやうな決まった形は持たないが、しかし液體のやうに決まった形を持たない譯でもない。柳に腰折れなし、といふ狀態を言ふのだ」

「分かった。日本人は物に靡き易いといふけれど、一方では世界で最も古いものを殘してゐる」





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麻道

「日本書紀などによると、推古天皇十二年夏四月三日、皇太子が憲法十七條(いつくしきのりとをまりななをち)を親(みづか)ら肇(はじ)めて作りたまふ、とある。

 この皇太子とは、厩戸の豐聰耳(うまやどのとよとみみ)の皇子(みこ)、すなはち聖コ太子と申し上げる。

 これは七世紀初め、太子が卅歳になられた頃に書かれたもので、當時の日本文はすべて漢文で書く他はなく、從って基本的に儒佛風スタイルの修辞が用ゐられてゐるが、内容的には上古以前の我が國のマツリゴトの要點が餘すことなく繰り返されてゐる。逆に言へば、六七世紀は、この太古からの道が危ふくなってゐるといふ、切羽詰まった危機意識の下に書かれてゐる。

 十七條を“とをあまりななをち”と訓むが、“十七(とをあまりなな)”は“十本の指に剰ること七つ”の心意氣であり、同じ事を十篇、唱へ、さらに七度、色々な角度から表してゐるのだ。

 條を“をち”と訓むには、文字通り“麻道(をち)”、細長い麻糸のやうな道といふ心意氣だらう。政治といふのは、かうした細くて堅い絲で、切れずに繋いで行くものだといふ心意氣なのである」




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2012年05月26日

政治

「日本の政治は腐敗と言はれ、今はむしろ無策、政治家不在とも言はれるが、もう少しましな政治が出來るやうになるにはどうしたらいいだらう」

「そんなこと俺に分かる譯がないだらう。分かるんなら自分で政治家になってゐるよ。我々としては好い政治家を選ぶ目を持つしかない。上の良し惡しは下の良し惡しで決まるからだ。

 大昔、人がまだ直く清らだった頃は、天皇はただ神ながら天の下を知ろしめすだけで、特に政治といふものは要らなかった。いはば天然の道のやうなものがあり、人が何をすべきかは誰の目にも明らかだったからだ。

 世の中の亂れといふものも勿論あったのだらうが、それも自然のうちで、ときどき颱風や地震が來るのと同じで、人はただ無事を祈る他もなかった譯だ。

 ときどき、道が分からなくなる時も、強ひて小理屈を捻ることなく、御占(みうら)でお天道さまの御心をうらなひ、それでも天の下はめでたく治まってゐた。これも萬民が心直く、從って政治を司る大臣も心清かったからなのだ」

「さうかな。昔はそんなに平和だったのかな」 






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