2012年02月17日

スタッフー

「ここで、ケを持つ子猫ちゃんと、ケを持たないであらう猫の縫包みの違ひを考へて見よう。

 子猫ちゃんのケは、眠ってゐるときも、起きてゐるときも、物を見、生きて活動してゐる。このケは、自分自身が勝手に動き囘るものである。

 腹が減れば苦しくなり、怪我をすれば痛くなるが、その苦しみや痛みも、胃袋自體が痛み、怪我が作り出すものではない。空腹や怪我を知った我々のケが痛みを覺え、苦しんでゐるのである。

 つまり、ケは外界の情報に反應しはするが、その實體の全てを自分で作り出してゐるのである」

「痛みも苦しみも、腦が創りだしてゐるのではないかい?」

「もしケも腦が作り出してゐるなら、そもそもケとか魂を腦から區別すること自體、意味ないことになる。苦しみも痛みも、時々の腦の狀態の變化に過ぎないことになる。

 縫包みと子猫の區別も、その精緻性だけのことになる。しかし、縫包みは如何に精巧に作られようが、けして持ち主に愛撫を要求してイライラすることはないし、床に落ちて痛がることも無いやうに見える」




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2012年02月16日

アンデッド

「また話が脱線しちゃってるやうだけど、お前さんの云ふ、そのケが、それを觀る人の主觀に過ぎないといふことは分かった、ことにする。

 で、話はどうなるんだい」

「どうにもならないよ。ただ、自分が感知出來ない物の存在を假定し、幽靈が在るとか無いとか云ふ議論は現代人の暇つぶしに過ぎないと言ひたいだけだ。ある人には見えるものが、別の人に見えるなんてことは、日常茶飯事だらう?

 ま、それは、いい。昔の人が、例へば『死』といふ問題も、自分から見える『死』だけを扱ひ、けして抽象的觀念的な『死』を論じることが無かったこともつけ加へておく。

 さて、次に。ケ、つまり魂は、それを觀てゐる人の内心にあるといふ前提で話を進めよう。

 さうすると、魂はけして無くならない、といふことが出來る。云ひ方を變へると、魂は、譬ひそれが消えても、消えたことは認識されないといふことだ。

 消えたことを認知する主体そのものが消えたのだから、『死んだ』と感知することは出來ない。だから、自分の魂に關する限り、それが在ることは自明だが、『無い(と認識する)』こともあり得ないのである」



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2012年02月15日

屁の如き

「確かに、ケといふのは精神のことだとしても、現代人は人間や動物以外にケがあるとは思はないだらう」

「一應、建前上はね。しかし、普通、例へば屍體といふものは、動物のものでも、不氣味な感じがするだらう。ただの物質だとは思はない。まして、自分の親しい人の骸は、大事に扱ふのではないか。それは、遺體にも、未だケがあるやうな感じではないか?」

「それは遺體にケがあるのぢゃなく、文字通り、遺體にケがあると、それを見る人が『感じ』てゐるだけだらう」

「さういふ言ひ方をするなら、純然たる物、例へばコップの水にしても、それを觀察する人が『確かに在る』と思ふ以外に存在の確かめ樣がないぢゃないか。質量やエネルギーの計測にしても、確かな手應へがあると『感じる』爲の根拠に過ぎない。

 しかし、それはまぁ現代人の神話に踏み込むことになるから、強ひて論ふことは止しにしよう。ただ、昔の人は、『物の存在自體』と、それを『在ると思ふ自分の確信』を區別しなかった。なぜなら、自分が感知出來ない物の存在など、『屁』にもならないからだ」



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