2011年11月17日

ウラナヒ

 昔は大事を決めるのに、よく占ひを用ゐてゐた。もちろん、今でも用ゐる人は多い。

 しかし私自身は子供の頃からひねくれもので、占ひをほとんど信じてゐなかった。中學生の生意氣盛りの頃は、占ひを信じてゐる人間など馬鹿にしてゐた。

 その考へ方が變はり始めたのは中年の域を過ぎてからだ。一つには病氣をして、唯一信じてゐた健康に自身がなくなり、氣もすっかり萎えて氣弱になったのだらう。自分の判斷力といふものにまで、全く自信がなくなって來た。

 この世は、或は自分が漠然と考へてゐたより遙かに奥深く、恐ろしく、複雑なものだ。その前では人の叡智など児戯にも劣るものではないか。と思へて來た。

 しかし人はどうしても決斷しなくてはならぬことがある。あらゆる情報を集め、徹底的に分析し、あらゆる事態を推測し、最善の選擇をしなければならぬのに、むしろ納得の行く結論の出ないことの方が多い。

 その場合、例へばサイコロででも決める他はない。サイコロの目は、自分が左右することは出來ないから、自分の力の及ばない何かが決めてゐるだらう。

 現代人はそれを偶然といふ。しかしそれは因果關係の説明が出來ないといふに過ぎない。しかしその偶然の決定に從はうと決めたとき、人はその結論を偶然と片づけることは出來ない。



posted by ゆふづつ at 00:01| 日記 | 更新情報をチェックする

2011年11月16日

厩火事

 厩火事といふ落語がある。亡くなった古今亭志ん朝が十八番にしてゐたもので、髪結の女房が怠け者の亭主の實意を試す噺である。

 仲人がお先にかうアドバイスする。もし女房が轉び、亭主が大切にする瀬戸物を割ってしまったら、そのときの亭主の反應で、この夫婦の行く末が分かるだらう。

 もし亭主が女房お崎の體を勞るならばよし、もし自分の瀬戸物のことばかり氣にするやうなら、さういふ不人情な亭主とは別れてしまへ、といふ譯だ。

 結局、この亭主は瀬戸物より女房の體を心配し、お崎を一安心させるのだが、よく聞いてみると、亭主、
「當り前だらう。お前が指でも怪我したら、こっちは晝間っから酒が飮めねぇ」でオチになる。

 この噺は作中でも紹介される論語の、

 厩焚 子退朝曰 傷人乎 不問馬

 が元になってゐる。曰く、

 厩(うまや)焚けたり(やけたり)。子、朝より退きて曰く、人を傷(そこな)へりやと。馬を問はず。

 この話は實話だったのだらうが、最後の「馬を問はず」は餘計である。

 孔子は朝に通ふにも馬車を用ゐてゐたばかりか、ソクラテスと同じく、臣民、市民としての義務を非常に重んじてゐた。いざ祖國が危機に陥れば進んで軍役に就いた筈であり、その際、馬は人と運命を共にする大事な戰友である。

 まして、火事は「厩で」起きたのである。知らせを聞いた孔子が馬を氣にしない筈はない。しかも、厩の火事で人が燒け死ぬことは滅多にない。支那の家屋は日本のやうな木造ではないだらう。

 百歩讓って、馬が物だっだとしよう。亭主が家に歸ったら、女房が、
「あなた、ベンツを入れてある車庫が燒けてしまひましたよ」
「何、ベンツの車庫がか?それで、子供たちは無事だったか?」
「もちろんですよ」
「それはよかった。ぢゃ、飯にでもしようか」

 かういふのは、よほどの金持ちか、頭のネヂが緩んでゐるか、ひねくれ者か、落語の聞き過ぎではなからうか。 支那の話はかういふトンチンカンなのが多い。



posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする

2011年11月15日

言葉

 コトバ、言の葉といふ言ひ方は、さう古くないやうである。古事記には出て來ないし、萬葉集にも見當らない(「辭」などをコトバと訓讀する人は多いが、ただコトと讀むべきである)。
 
 萬葉には眞假名で「イヒシコトバゾ」と讀める箇所があるが、これも「イヒシコトハゾ」かも知れず、「ハゾ」は
ただの助詞である可能性もある。

 つまり、古今集以降によく使われる「ことば」或は雅語の「言の葉」は、「亊(こと)」と「言(こと)」が概念上區別されたあとに、特に「言(こと)」をコトノハといって區別するやうになったものであると思ふ。

 要するに奈良時代以前、上古には「亊(こと)」と「言(こと)」の區別はなかった。ただ人の目に映る世界、耳に聞こえる世界を「こと」と言ったのである。だから、「こと」は、それを見聞きしてゐる人の數だけ存在する。

 その人の發する言語は、その人の觀てゐる「こと」を反映したものである。だから言葉を聞く人は、言葉を發した人の心の中を、その言の端(葉)から想像してゐたのである。

 言靈(ことだま)の靈(たま)は「人の心」であるから、その心の發する言(こと)と心(たま)が一致するのは當然のことであらう。言靈思想とは、人の數だけ世界觀があるといふ、現代でも當り前のことを言ってゐるに過ぎない。



posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする