2011年10月19日

アソビ

 魏志倭人傳は、

 當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒

 時に當りて肉を喰はず、喪主哭泣し、他人就いて歌舞飮酒す、と云ふ。

 肉を喰はないのは血の穢れを嫌ふ爲であり、喪主が哭泣するのは當り前であらう。

 近世以降、平和な時代が續き、武士道が儒教竝に觀念哲學に發達し、男子は泣かないのが美コとされることになった。明治以降、これは婦人にも半ば強要されることになった。

 しかし戰爭に破れたあと、男は必要以上にピイピイ鳴くやうになった。しかし政治家が人前で泣ける國は、文明國では、我が國だけであらう。

 歌舞飮食も、昔の方が盛んだった。古墳の周りに竝べられた埴輪は、酒壺を持った女、樂器を持った人、踊り舞ふ人がゐる場合が多い。

 葬(はふ)りの祭であれ、その他の祭りの爲であれ、「遊び」には酒と音樂、歌舞が必要だったのであり、これは全ての民族に共通してゐたのではないか。

 踊りはジャンプのやうな垂直的な動き、舞ひは平面的に囘轉する動きである。

 今はビデオゲームや野球サッカーの類をするのも遊びになるが、昔もさうした類の息抜きを全てアソビと云った。

 そのアソビの典型が、琴を彈き、笛を吹き、歌ひ、舞ふことであったから、これは葬式には不可欠だったのである。

 今はまた例によって嚴粛であるべき葬儀にアソビとは怪しからんと、禿の陰氣臭いヲジサンか、近眼出っ齒のヲバサンあたりが怒るだらうが、

 實は天照大御神が天の岩戸にお隱れになり、この世が眞っ暗になってしまったあと、困った神々が女神を誘ひ出す爲に使った手段の一つがこのアソビだったのである。アソビがなければ、この世は眞っ暗。何も見えなくなってしまふのである。



posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする

2011年10月18日

もがり

「始死停喪十日」

 人が死ぬと、遺族は十日間、喪に停まる、といふ。

 漢語の「喪」は、人が亡くなり、遺族が大聲を擧げて泣くことを云ふ。

 ただ倭語の「も」はかなり意味が異なる。「曲がる」「禍事(まがごと)」などの「ま」と同源であり、長く續いてゐた「「直合(なほらひ)」=日常が破れたことを云ふ。

 このやうな狀態になると、人は我を失ひ、ウタテ覺えて、と惑ひ、歎き、悲しむことになる。これが「も」である。

 この狀態から抜け出るのが、「もがり(もあがり)」であらう。だから喪の期間は十日とは限らない。一年以上もかけて、おもむろに諦めて行くことになる。シナの如き、一定の期間を定めた服喪の制度は、上古には見られない。

 ただ、古くは人里離れた山野に「もがりの家」を建て、そこに屍を置くことがあったらしい。詰めてゐる遺族は、その屍の色が變はり、内臟が腐り始めた頃、やうやくこの世のものではないことを悟り、「もがり」となる。

「始死停喪十日」の記述は、かうした殯(もがり)の風習を聞き齧ったものか。




posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする

2011年10月17日

作冢

 魏志倭人傳には倭人の葬式に關する記述が見られる。まづ、

 其死有棺無槨封土作冢 

 とある。棺桶はあるが、シナのやうに土中に石室などの槨(かく)は設けず、これをそのまま土に埋め、土を掛けて冢を盛り上げる、と云ふ。

 棺桶を埋めれば、棺桶の體積分だけ盛り上がるのは當然であらう。

 棺桶はおそらく、孕んだ母の腹を模した形だっただらう。これは庶民にも火葬が普通になった近代以降、火葬し易い直方體に改められた。その代はり骨壷だけは腹の形をしてゐる。

 胎児の形に屈葬し、盛り上がった冢も、時が經たてば崩れ、平地になる。かうなると墓の位置が分からなくなるので、その上など踏まれぬやう、草木を植ゑたらしい。

 今でも墓參に榊や切花を用ひるのは、その名殘であらうか。また卒塔婆なども、石の墓を建てる前の樹木の代はりなのだらう。

 馨を焚くのは屍臭などの異臭を紛らかす爲である。大昔は相當に長い日にち、里から離れた場所に殯の假屋を設け、遺族はそこで過ごした。

 喪中の遺族が人前に姿を現さない喪中の習慣は、實際上の必要に基づいてゐる。日本人がこの惱みから解き放たれたのは、大量の燃料が必要な火葬と、ドライアイスなどの冷凍保存方法の普及による。



posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする