2011年10月22日

すまひ

 すべてのインドヨーロッパ語は、七千年ほど前の共通祖語に遡ると言はれてゐる。現在の人類の誕生がだいたい二十萬年ぐらゐ前だと言われてゐるので、今、耳で聞くと全く違ふやうに聽えるドイツ語や英語、フランス語、ヒンズー語、ペルシャ語等々は、ベベルの崩壞後、それぞれに歴史の中で變化を辿って來たといふことだらう。

 しかし、殘念ながら、といふべきか、日本語の場合は、地理的に近い朝鮮語や滿洲語、中國語との關係も、印歐語相互の場合ほど明らかではないらしい。ただ、古代の新羅、特に百濟などとは、漢や滿洲族、北方騎馬民族等の影響といふことを除けば、上古の日本にかなり近かったことは確かだらう。

 現代の朝鮮語は6割程度が漢語由來と言はれるが、それでもなほ似たやうな語が少なくない。これには南朝鮮や對馬の倭人を通じて相互に影響し合ったといふこともあるだらうが。

 ただ、今の韓國朝鮮は似て非なる國とみなければなるまい。かの國と日本は、英國と佛蘭西との關係よりづっと隔たってゐるやうに見える。朝鮮は十二三世紀から完全に大陸の文化圏に入ったと見なければならない。

 これに對し、日本は、北から、或は朝鮮半島、東シナ海から渡來した人間が多かったにも關はらず、基本的にはポリネシア系の文化を基底にしてゐる。一言で言へば、先住民の尊重、粗末な家屋と衣類、母性的な集團の作り方、移動性、母音優性の言語等々である。

 大相撲の土俵入り等、儒教的觀點からは南蠻の極みといふことになるだらうが、日本やポリネシアの海洋風文化の下では完全な正裝である。神々の祭に參加する者は六尺一本に裸足、といふのが掟なのである。




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2011年10月21日

持衰

 魏志倭人傳。

 其行來渡海詣中國 恆使一人不梳頭 不去蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之持衰 若行者吉 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹

 倭人は中國へも行き來し、わざわざ海を渡って詣でる者もあると云ふ。ただ「渡海詣中國」とは言はず、「行來渡海詣中國」と、もって囘った言ひ方をするのは、當時、朝鮮半島にも任那など倭人の國があったからだらう。

「詣中國」とあるが、これは倭人がシナに朝貢してゐたといふ意味ではない。「詣」は「おいしい物に指を伸ばす」象形文字である。シナには中華思想があり、中華から遠い國ほど未開な野蛮國に過ぎない。

 この「其行來渡海詣中國」の部分、五世紀の後漢書は單に「行來度海」としてゐる。

 次に、「恆使一人不梳頭 不去蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人」とある。恆(つね)に一人の頭を梳らせず、シラミを取らせない。衣服は汚れたままにさせ、肉も食べさせず、婦人も近寄らせない。服喪する人のやうだ、と云ふ。

 しかし當時の倭人には、喪に服した人を旅行に連れて行くほど度胸のある人はゐないだらうし、船に加工肉や女を乘せることもなかった。女はいつ生理が始まるか分からないからである。

 これは倭人の服喪に因んだ、一種の笑ひ話だらう。シナや朝鮮には儒教的な優越觀から倭人や日本人を嘲笑ふ類のジョークは昔から多い。

 しかし、もし實際にかういふ旅人一行がゐたとすれば、それは間違ひなく本物の倭人ではない。倭人は災(まがごと)は穢れのもたらすものと固く信じてゐるからである。

「名之持衰」 これを持衰(ぢさい)といふ、と云ふ。衰は服喪三年の胸章のことであり、服喪することを廣く持衰と云ったらしい。持衰なる漢語を知ってゐる倭人とは、いったいどこの倭人であらうか。




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2011年10月20日

水中澡浴

 魏志倭人傳。

 已葬擧家詣水中澡浴以如練沐

 とある。「葬」は筵の上に屍があり、上に草が生えてゐる象形である。こんな葬り方があったのだらうか。

 しかし倭人は埋葬が濟むと、一家を擧げて水中に入り、水を浴びて體を澡(あら)ひ清める。シナの練沐のやうだと言ふ。

 練沐とは一周忌に練絹を着て水浴びをすることらしい。キリスト教でも、かなり古くから全身に水を浴びる受洗が行はれてゐたやうである。おそらく、かうした文明的儀式の行はれる以前から、人類に水を浴びる習ひがあったのだらう。

 が、いづれにせよ倭人は特に水を浴びるのが好きだ。古い神社(みやしろ)は必ず海邊や湖のホトリにあり、そこで體を清めてから入ることとされてゐたらしい。

 社(やしろ)は「ゐやしろ」のことで、「ゐや」は自分より優れたものに對する恐れ畏みを表し、「うやまふ」の「うや」と同じであらう。

「しろ」は「知る」や「しるし」の「しる」と同じで、ものが現れて來るのが見え、または感じられることである。

 さういふ、何か恐ろしいものが感じられる場所が「やしろ」であり、それは人里離れた海邊、山の中、或は森の中にあった。神社に社殿が建てられるやうになったのは佛教渡來後である。

 ヤシロもだんだんと奥地に進み、近くに湖もないときは川で禊をする。ミソギはミススギである。ともかくも恐ろしい神の前では身を清める。これが倭人の鐵則(おきて)なのであった。




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