2011年10月25日

 人類の誕生が20萬年前だとして。いはゆる文明が起きたのは、たかだか數千年前のことだ。今、電氣が來ないだけで大騒ぎしてゐるのだから、この數千年が人類を大きく變へたことは確かだ。

 その文明がまづ行ふのが宗教の創設である。これは今では法律と言ひ換へても好い。民主主義、人權?これらは神學用語と同じく難解である。

 思想良心の自由などと云っても、本當に思想良心が個人の勝手になるなら、とても社會など成立しない。多くの人が最低限の社會ルールに從ふことが前提になり、この社會は成り立ってゐる。その仔細を定めるのが宗教とか道コ、法律なのだらう。

 そのルールの一つに度量衡の統一といふのがある。例へば古代シナの周といふ國では、一尺が約20cm、一升が200ml弱、一両が15g弱、一畝が140u強であった。

 かういふ風に一律に決めて置かないと、商取引の際にトラブルになる。度量衡の度は長さ、量は容積、衡は重さのことである。

 度量衡の決定は、暦や貨幣等と同じく國家權力の専權であり、日本の貨幣も、日本といふ國號の成立とほぼ同時期である。但し我が國では度量衡の統一は西歐に脅されてから後のことになる。

 遡ることおほよそ千三百年前、それまで使用されてゐた唐からの輸入貨幣に替へ、和同開珎を用ゐたといふことは、シナとは獨立の主權國家であるといふ宣言であり、日本の國號もシナに對してのみ用ゐられた。

 尺の字は、人をから見、一歩を踏み出した形であらう。周の時代は優雅に歩いたらしく、尺が20cm前後であったが、戰國時代を經、秦や漢になると30cm近くなる。

 以後、また短くなるが、隋や唐でまた長くなり、30cm以上に落ち着いてしまった。

 尺はシャクといふ讀み方で倭へ入り、その後もシャクのままだが、似たやうな倭語でサカといふものがあった。これもシナの尺の訛りだと思ふ人が多いだらうが、實は違ふらしい。

 倭では長さを丈(つゑ)で計った。萬葉に、

 丈(つゑ)足らず 八尺(やさか)の嘆き

 とある。一杖の長さに足りない、8割しか無い、と嘆いてゐる。この場合の尺は當字で、「さか」は「十(そ=さ)處(か)」の意で、一つの物を十に分けた部分を言ふ。「處(か)」は「限る」などの「か」と同じである。

 サカをさらに細かく十等分するときは「キ」を用ゐ、寸や刻などの字を用ゐる。「きざむ」などの「キ」である。

 尤も、當の倭人自身が「さか」を漢語の尺と混同してしまひ、意味を忘れて使ってゐる。だから昔の丈がどのくらゐの長さだったかも分からない。

 尺の長さも日本獨自のものが使はれ、明治八年の度量衡取締條例で統一されるまで、曲尺(かねじゃく)、鯨尺など、樣々なものが使はれてゐた。




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2011年10月24日

 司馬遷の史記、伯夷列傳第一に、 「天道是耶非耶」といふ言葉が出て來る。

 この世は、正しい人、何も惡いことをしない人が酷い目に遭ったり、逆に惡人が榮えることが珍しくない。

 これは洋の東西を問はず、昔からの大問題で、聖書のヨブ記などは、これを正面から扱った話もある。しかし、この問題を常識的に分かるやうに解決することは出來ない。

 解決出來ると言ひ張る人もゐるが、その人は常識では理解出來ないある「公理」を信じてゐる。彼の解決方法を萬人に適用することは不可能である。

 しかし、この難問は、人類にとって、さほど古いものではない。例へば、二千年以上前の倭人には、この問題は存在しなかった。倭人には「天」が無いからである。もちろん天ならぬアメはあるが、それは神々の住む空の上であり、人間の手の届かぬ、理解を絶する世界であった。

 人間には理解し難いものもあるが、それは人を超えた深い理によるものだと考へてゐたのである。・・・それままぁいいとして、

「天道是耶非耶」を倭人は 「天道是か非か」と讀む。むろん倭人も善惡を知る木を食べた後の話である。

 この「耶」は日本人は呉音で「ジャ」、漢音で「シャ」と讀み、例によって日本語のサ行の發音は曖昧であったから、「や」に近い發音になる。實際、「耶」は萬葉假名でも「や」の音に遣はれてゐる。

 すると漢語の「耶」が日本語の疑問の助詞「や」になったのではないかとの疑ひも生じるだらう。

 しかし倭語の「や」は、元々は「やぁ」といふ呼びかけの語で、これが相手に確認したり、念を押したりする意味で使はれる内に、疑問や反語の意味合ひが強くなったものだ。

 萬葉から大友家持、

 故之能宇美能 信濃乃波麻乎 由伎久良之 奈我伎波流比毛 和須礼弖於毛倍也

  
 越(こし)の海の 階野の濱を 行き暮らし 長き春日(はるひ)も 忘れて思へや

 越中の階野濱を歩き囘り、長い春の一日を過ごして、懷かしい都を忘れて(・・・って、本當にさうか?・・・なワケねぇだべ)やっ!と言ふのだ。





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2011年10月23日

馬鹿げてゐる

 英語の milk と ドイツ語の Milch は、英語とドイツ語の k−ch といふ對應公式により、同一祖語から出てゐることが明らかだといふ。 make=machen も同樣の例。

 漢語と倭語にも發音と意味が似てゐる語がある。しかし、これは同一祖語ではなく、他人の空似と見られる。英語−ドイツ語相互のやうな一般的な對應関係が見られないからである。

 しかし我が國には中華本店大和支店っぽい人が多く、純粋の倭語を漢語由來と誤解してゐることも珍しくない。

 例へば、色氣(いろけ)の氣(け)は、漢字でも書けるが、元は倭語である。一應五感には感じられるが、手に取ることが出來ないものの存在することを「け」といふのだ。

 例へば、「秋の氣配(けはひ)がする」。氣配は「け・延ひ」のことで、「け」が廣がることを云ふ。「氣配」と書くのは當て字である。

  ケは他の語と結びつくことが多い。「モノノケ」「ケムリ」「悲しげ」などの「け」「げ」。

 また「か細し」「か弱し」「」「のどか」「さはやか」などの接尾辞や接頭辞に使はれる「か」も同じだ。要は「どこかどうだと巧く説明はし難いが、はっきりとさう感じられる」ことを「か」「げ」「き」と云ふ。

 漢語の氣(気)も、我が國では古くは「け」、しかも所謂上代特殊假名遣ひでも「(乙類の)け」、萬葉かな平安時代の漢語から「き」と音讀みされる。意味も湯氣、水蒸氣のことであるから、倭語のケ(これも乙類である)と混同され易い。

 源氏物語などに「氣色(けしき)」といふ漢語が使はれる。ケシキと讀むのは呉音讀みである。意味は氣配と似てゐるが、人の表情などヴィジュアルな意味で用ひられることが多い。




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