2011年09月27日

からごころ

「事の善惡を論(あげつら)ふな、物の道理(ことわり)を言ふな、と言ふのは、現代では馬鹿になれ、といふのと同じほどの暴言ぢゃなからうか」

 別に俺は大臣ぢゃないから構はない。斷っておくが、物に善惡(よしあし)や道理(ことわり)が無いと言ってゐるのではない。それを賢しらに論つらふのが外國風だと言ってゐるだけだ。

 何が心ねぢけた賢しらの論ひで、何が眞の善惡、道理であるかは單簡には言へぬが、この二つにはハッキリとした區別があり、この辨へを思ひ出す爲には、今や日本の古典を讀む以外には無い。

 和歌や古事記には哲學が無い、神學が無い、道コが無い、といふのはある意味では正しいが、それは全く外國風に染まった基準から判斷してゐるだけのことで、その觀方を變へるには、いったん外國のものを忘れ、素から古典を讀まなくてはならない。

 この場合の「讀む」といふのが又、問題だ。今は學校で外國風の讀み方に慣はされてゐるから、日本の古典は初めから理非善惡を辨へない、詰まらないナンセンスの典型のやうに思はれてゐる。

 特にダメな國語教員に教はった古典は、西洋風文法規則と珍妙な現代語譯とともに、卒業と同時に忘れ去られる。單なる費用と時間の無駄遣ひに終ってゐるのである。 




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2011年09月26日

ハイカラ

「我が國の學問は外國から入って來たので、我が國人もまた、これに大きく影響され、いはば外國派に傾いたものと、逆に外國のものにはほとんど影響されてゐない者とがあると思ふ」

 外國のものに影響されてゐない者は現代ではまづよほどの變はり種か不勉強な人だらう。お主の今の分け方より、外國寄りに傾いた者と、傾いてゐない者とに分けた方が適當だと思ふ。今これを便宜上ハイカラ組とナデシコ組と呼ぶことにしよう。

「ハイカラ組とは具體的にはどんな連中のことだ?女だてらに球など蹶るのはハイカラ組ぢゃないのか?」 
 だから。今はさういふのもハイカラだとすると、ハイカラぢゃない倭人はゐなくなっちゃふだろ。もう外國のものを廢除するのは無理。今この文章を書いてゐること自體も外國の物眞似から始まったことだよ。

 だから、結局、心まで大きく外國に傾き、といふことは詰まり、心のバランスが崩れてゐるのをハイカラ、さうぢゃなく心の平衡は保ち得る狀態がナデシコと言ふことにする。

 そして具體的に言ふと、事の善惡を論(あげつら)ふ者は全てハイカラの疑ひが濃厚。物の道理(ことわり)を言ふ者もハイカラ。意外だろ?これを意外に思ふこと自體がすでに文明の潮にどっぷりつかってゐる證據だ。

 なぜなら、古事記を讀んで見よ。古事記は推古天皇の御世から前の時代の物語だが、そこでは事の善惡とか、物の道理はただの一言も出て來ない。つまりこの日本最古のフミの描く世界には善惡とか是非の問題は存在しなかったのだ。これは現代人には驚くべきことだらう。

 さういや、聖書にも、人間は善惡を知る木の實を食べたがゆゑに樂園を追放されたと書いてあったやうな氣が・・・



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2011年09月25日

眞心

「學問が人の肉體的精神的惱みを救ふ爲にあるのだとすると、それはやはり一種の方法であって、今の醫學や精神病學と同じやうなものだらう。昔の學問とどこが違ふのだ」

 病氣を治療する爲の學問なら、昔の方が徹底してゐたと思ふ。基礎醫學と臨床醫學の區別などありはしない。何も効かない理論など屁みたいなものだ。

 しかし學問の本來の姿は、もっと素朴な、人はどう生きるべきか、何をすべきか、といふことにあった筈だ。おそらく文明以前には、かうした疑問は持たなかったのだらうが、社會が發展し、複雑になって來ると、爭ひや惱みの種が増えて來る。

 だから、藥師はもちろん學者の仕事も第一は人々の相談に乘ることにあった筈だ。そして文明が發展することによって生じた惱みは昔は無かったのであるから、まづは昔を思ひ出す必要がある。どこをどう無理をして人間の精神が變調を來たしてゐるのかが分からなければ、治療の施しやうがないからだ。

 そして昔の人の生き方を知らうとしたら、現代人の目は取り敢へず棄てなければならない。文明の目から見れば、昔はただの未開だったに過ぎないからだ。ちゃうど小學校に入ってナマになった子が、自分の弟をただの駄々っ子扱ひするのと同じことになる。

 しかし自分が小學校に入ってからをかしくなったのなら、まづそのをかしくなる前の狀態を知らなければ、本當の問題は分からない。人間の進歩も、ちゃうど植物が成長する時に、根や幹に不相應な枝葉をつけると、植物全體が枯れてしまふのと同じことになる。そして心について言へば、その根や幹に當るのが眞心、つまり本來の心だと言ふ譯だ。




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