2011年09月30日

一神教

 外つ國の神は一神教であるが、我が國の神は原始的なアニミズムの域を出なかったといふ人がゐる。なるほど物は言ひやうだ。

 支那の儒教も、天罰を以て人に警告するといふ災異説など、すでに立派な一神教であらう。程朱學なども絶對的に理なる概念を唱へる限り一神教に近いと言ってよからう。

「しかしオヌシも物の理(ことわり)のあるのは認めるのぢゃらう。同じ穴の狢、いや一神教の信者といってよいのではないか」

 いや、道の理の妙(たへ)なる深いところは、人の小さな悟りでは推し測ることが出來ない。にも拘はらず、己の賢しらな智(さとり)を以て天の教へだの天命だのといふのが一神教だ。

 將棋のやうに、子供でも分かるルールによって作られたゲームでさへ、初めの一手は何が良いかは未だに分からない。まして、先手が勝つ必勝法は未だに誰も知らない。

 なのに、この世の動くルールさへ未だに分からない人間に、天命など知れる道理はない。所詮は己が賢しらの思ひつきを、ただ天命だの物の理だのと言ひ張ってゐるにすぎない。

 そもそも、天は空の上にあって神々の住まふ國であるから、そこに神々の意志はあっても、天命などあらう筈もない。




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2011年09月29日

をかし(2)

「烏滸(をこ)がましい」といふ言葉がある。源氏物語では、例へば、太政大臣が内大臣の娘に手を出し、スキャンダルになるやうな事態を「をこがまし」と云ふ。

 要するに普通のまともな人なら行はないやうな眞似をして、世間の物笑ひの種になるやうなことが「ヲコ」である。現代語では「差し出がましい。分不相應」の意で使はれることが多い。

 ヲコは當字で尾籠と書くことがあり、これを音讀してビロウと云ふ言葉が出來た。「ビロウな話で恐縮ですが・・・」のビロウだ。

「をこ・がまし」の「かまし」は「やかましい」と同じで、音がキャンキャンと耳障りなことを云ふ擬聲語だったか。ヲコが大人しければ見逃してもいいが、煩いヲコなら許し難い。

 明らかに笑ふ動物は人間だけだらうから、笑ひは猿と人の分水嶺だらう。笑ひは錯視などと同じく、腦の産み出す幻影と現實のギャップに生じ易い。絶對に笑へぬ厳粛な場では芋が轉がるだけでヲカしくなる。

 人ほど約束亊で複雑な社會を作る動物もないだらう。その窮屈な約束亊が破れ、人間がふっと素に戻ったとき、生まれるのが笑ひであらうか。



 
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2011年09月28日

をかし

 言葉は妙なもので、元の意味と全く逆に使はれることが珍しくない。例へば、「いい加減」「テキトー」が、その場しのぎのデタラメ、無責任の意味で使はれることがある。

 適當は、元は「ぴったり正確には當てはまる」といふやうな意味だし、「いい加減」も「丁度好い調整狀態」を云ふのだから、この意味の差は大きい。

「本當は適當ではないが、その邊りで適當なことにしておく」が「適當にしておく」となり、「適當にする」「適當だ」となって、だいだいの間に合わせでOKといふ意味になったのだらう。

「そんなに毆ったら死んでしまふ。いい加減に止めておけ」、「本當は不十分、又は過度だが、まぁいい加減なことにして止めておく」等が省略され、「いい加減にしておく」となった。

 つまりほどほどといふ意味の「いい加減」が「不正確」、「不十分」、「過度」の意味に變はったのだらう。言葉の省略といふのは多少とも元の意の變改を導き易い。

 かういふ言葉の亂れは昔からあり、古語の「をかし」も二つの違ふ語が重なったもので、全く違ふ意味で用ひられる。

 まづ「おも・むかし」=「おむかし」が元になった「をかし」。面(おも)は顏のことで、「顏を向けたくなる」意から「興味・關心が引かれる」「ちゃんとした」の意に用ゐられる。

 源氏物語で、立ち去り兼ねる弔問客に、形見の衣類など贈る場面で、

「をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば ただ かの御形見にとて かかる用もやと 殘したまへりける御装束 一領 御髪上げ(みぐしあげ)の調度めく物 添へたまふ」

 とある。この場合の「をかしき御贈り物」とは、弔問客に贈るべき、然るべき物といふ意味である。悲嘆にくれた遺族はそんな氣の利いたものを用意する餘裕もなかったので、たまたま用意されてゐた形見分け用の衣類を渡したのだ。

 もう一つの「をかし」は、現代語の「お前の言ってることはヲカシいだろ」のヲカシ。




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