2011年08月31日

むくろ

 さっそく、白い山が見えたぞ。木が生えてゐないな。死の山か。

「當りだ。あれは巨大なヤギの屍だ」

 山羊。ふぅん。こっちでも死ぬことがあるんだ。

「あの世にあってこっちに無いものは無い」

 こっちで死んだら、またどこかへ行くのか。

「それは死んで見なければ分からない」

 そらさうだ。だんだんこっちに馴れて來ると、あの世でのお約束がこっちではまるで通用しないことが分かる。こっちにはこっちで又別の約束ごとがあるやうだな。

「そらさうだろ。何か約束亊がなければ、我々は混沌してしまふ。堪へ切れぬやうに出來てゐるのさ。風壓の中を漂ふ風船のやうに」



 
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2011年08月30日

正身

 しかしこちらは思ったより廣い。かうして車で飛ばして行くが、行けども行けども唯の野原だ。こんな單調な景色は見たことがない。

「まぁそのうち見えて來るさ。お前さん、昨日は地面さへ見えず、ふはふは浮いてゐただらう。今は地面が見えるだけ馴れて來た證憑だ」

 なるほどねぇ。俺にはチミの正體もよく判らないんだが、それも慣れの所爲かなぁ。

「正體正體とさう簡單に言ふこと自體、ものがよく分かってゐない証憑だな。物の正體なんかさう簡單に分かって堪るか。まして人の正體なんぞ分かられて堪るか。一體君は自分の正體が人から正しく理解されてゐるとでも思ってゐるのか」

 なるほどねぇ。君は時に女に見え、今はタクシィドライバーに見えてゐるが、明日はどう見えるか分からない。君には或はそもそも正體みたいなものは無いのかも知れないな。



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2011年08月29日

行燈

 また暫く行くと、タクシーのやうなのが停まってゐた。屋根の行燈に「た」と書いてある。あやしいね。

 初乘運賃、710圓。円ぢゃなく圓と書いてあるところが怪しいが、値段は割と眞面。

 運轉手の人相。唇が厚く、その箸に黒胡麻が一粒。口を開け、齒を見せて笑ってゐる。いや眠ってゐる。鼻は紅葉饅頭風。神經質らしく鼻毛はきちんと刈り揃へてある。目は制帽の鐔がかかってゐるから見えない。

 上着は制服だらうか。白いYシャツ。胸に「た」の縫取り。この糞暑いのに窻を開け、エアコンは切ってある。なかなか感心。

 ちょっと乘ってみたくなったが、どこへ行く當てもなし。だいいち俺のコインが通用するかどうか。

「お客さん、いいっすよ、どうぞ」

 金、持ってないよ。

「その財布の中にあるぢゃないですか」

 見たのか。

「見なくても顏で分かります。こっちは何でも見た目ですから」

 しかし行先も無いんだが。

「それはある方がをかしいでしょ」

 目的地がないのに、どこへ行く。

「着けば分かりますって」

 滑り込む間もなく、ドアがピシャっと締まり、車は發進した。



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