2011年04月21日

くら 二

 福子の母親の雪子とは話をしたことも無いが、遠くから見かけたその姿が、今は福子と重なってゐる。實際に母娘が好く似てゐるのか、それとも娘の姿が母親の記憶に摺り替ってしまったのか。それもよく分からない。

 ともかくも溺れた福子を助けようと川に飛び込んだ二人の内、母親の雪子だけは命を取り留めた。ただ腦に遺った障礙に因り、結局は四十代の半ばにして世を去った。

 福子が八つの誕生日に起きたその事故が、その後の成長にどれほどの影響を及ぼしたか。想像に餘りある亊ながら、その中身については、當の本人にさへよく分かるまい。

「しかし、山の中に一人で住んでゐると、時々浮世を忘れてしまひさうになる。君のやうに一所懸命に働ける人が羨ましい」
「父も私も、浮世のことが忘れたくて山の中に住んでゐるのですが、やはり忘れられないものですね。あの、もし宜しければ、家の野菜、お持ちになりませんか」
 左に小野に拔ける道が見えた。



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2011年04月20日

くら 一

 及川街道から西へ登って行くと、昇り降りの多い市道へ出る。北側も南側も幽翠な森に覆はれてをり、ほっと一息が吐ける。健作は麦藁帽を取り、蒸れた髪を掻き毟った。

「今日は折角の休みなのに濟まなかったなぁ」
「いいえ、こちらこそ色々お心遣ひを戴いて有難うございました」

 いや、別に、と言ひたい處だが、空々しい嘘を吐いても仕方がない。未だ獨身でゐる上田福子を里見晴美が心配し、早く結婚させたがってゐる。晴美の背後には、むろん上田藤三郎や大倉廣見が控へてゐる。

 その晴美が、福子と優作の仲を氣にしてゐる。下手な縁談を進めれば、二人の仲を裂くことにならないか、と心配してゐる。

 確かに、健作にも二人の仲が惡くないことぐらゐは分かる。しかし優作は結婚に消極的なやうに見えるし、福子もセンタアの仕事に浸かり過ぎてゐる。さういふ二人をくっ着けても、何とかなるほど結婚も甘くないだらう。



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2011年04月19日

いとしご 十四(竟)

 晝食の後片附が終はると早々、
「さぁ、折角の休みを潰しちゃあ何だ」と健作が腰を上げた。二人の話も聞きたいが、それは再たの機會に、取り敢へず通りまで送ることにした。

「ここは高い處にある所爲か、少し吹き拔けがいいやうだね」
 と健作が羨ましがる。

「それは今日だけの話。いつもこんな風ぢゃない。むしろ君の家の方が日蔭にあって涼しさうだ」

「二人ともお世辭っぽい當擦りは止めて。うちなんか一日中カンカン照りよ。私もこっちへ越して來たくなったは」
 晴美が笑ふ。

 近道の急坂を降りると及川の街道だ。今は擴張の工事が始まり、やがてトンネルも出來て本當の街道になる。下へ降り、「君はどうするんだ」と晴美に聞くと、
「さうね、歩きながら考へる」
 街道を北へ行くらしい。

 福子も、「今日はありがとうございました」と頭を下げた。歸りは途中まで健作と一緒だ。暑い陽が眩しい。鰻がもたれるか、急に懈くなった。



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