2010年10月31日

茜雲 四

 郷土祭の當日、藤三郎は前日から伊豆の葬式へ出、當日も夕刻までは戻らないらしい。亡くなったのは中學時代の恩師だから、實に間の惡い時機に當った。殘りの四人は早い晝食を濟ませ、まづは一時集合の義士廻りを觀る豫定だった。

 教頭から人員の選抜や作戰を一任された鐵は、むろん優勝を狙ってゐる。優勝の小學校は、翌年度も郷土祭の會場に當てられる他、チイム全員に用高圓の使用券等の景品が貰へる。これに勝つと負けるとでは、殘り五ヶ月の小學校生活も大違ひなのだ。

 ただ、他のチイムの出場メンバーなど調べやうもないから、勝算も取らぬ狸の皮算用に過ぎない。鐵としては足の速いのを選ぶだらう他チームの裏を掻き、小囘りの利く優れ者ばかりを選んでゐた。校内グランドを一周する一年生は大差がつかないと見、まづは轉倒の虞れ等のない落ち着いたのを選び、また外周八百米程を走る二年生以上は特に後半に強い大丈夫ばかり選んだ。

 各ランナーには、前半は餘力を持って走り、なるべく先を讓るやう指示してゐた。鐵が美味しいところを戴かうといふ魂膽もあるが、今のところは露見してゐない。コオスも單純さうに見えて、案外に深さうである。まづ校門を出て笠掛街道から西の道に出る時、ほぼ直角に曲がらなければならず、走り方によっては二三秒のタイムが稼げ、また無駄なエネルギーを使はずに濟む。

 特に東側の野原はカーブや凸凹が多く、十五人が重なって走れば、まづは足を滑らす頓馬が出る公算が高い。鐵のチイムからは怪我人が出ぬやう、この數日の放課後はコオスの實走に励んで來た。これでも勝てなければ、この六人に明るい未來は無い。

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茜雲 三

 郷土祭は大倉廣見實行委員長の志向もあり、市や商工會は裏方に徹し、催し物が前面に出された。市郷土祭とは言ひながら、會場は湯地の由水小學校、實質は笠掛から湯殿、豊川、羽多岐までの舊笠掛町の獨り相撲に過ぎず、聖田、太ヶ谷、釜ヶ谷といった山間や周邊の地區からの參加は期待されてゐない。

 仰々しい式典等も一切無く、當日は晝前から笠掛物産展と稱する地元産品の即賣會が開かれ、飲食の露店等が出る。アトラクションの目玉としては、婚約中の市職員の男性が女裝、その將來の妻が男裝して會場を徘徊、その二人を最初に見破った一般市民には、商工會からビール一年分、又はディーラーから最新型のリッターカー一臺が贈られるといふ。
 
 かうした變なアトラクションには當然反對も強かったが、大倉實行委員長が、何か問題が起きたら自分が責任をとる、との一言で澁々に了承された。尤もさうした案そのものは前市議の上田藤三郎の發案だとも噂されてゐる。

 上田はその妻と養女が音樂祭の主役であり、また養子の小學生が義士廻りのアンカーに選ばれてゐる。また實行委員長の大倉廣見と近しい關係にあることは公知の事實であるから、郷土祭の私物化だと非難する人間も多いだらう。いづれにせよ一時半から行はれる義士廻り、三時半から六時まで、途中十五分の休憩を挟んで行はれる音樂祭は、笠掛市としては初めてのことであり、どうなるか分からないといふ不安の多いものであった。

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2010年10月29日

茜雲 二

 義士廻りのリレーは、例の忠魂六士の話に因み、戰前の尋常小學校男子の一年生から六年生まで、各組から一名づつが選拔され、組對抗の形式で行はれてゐた。實際の笠掛落城は今の夏休みに當る爲、當時は秋の運動會に行はれたが、プログラムの取りを飾る最大の演目であった。

 先づは一年生からスタート、だんだん學年が上がって行き、最後は六年生の勝負となる。これが市の文化祭では、市内十五の小學校毎に一チイムが編成される譯である。

 コオスも戰前は言ひ傳へ通り、落合から御堂橋、及川の山道を拔けて羽多岐まで、最後の北山街道を除けば山道ばかりといふ險しいものであったが、今は安全第一にと、由水小學校のグランドを一週、周圍を五週したあと、再びグランドに歸ってゴールといふ、堂々廻りに改められた。實に安直な忠魂六士と言ふべきだらう。

 學校の西側は雑草の生ひ茂る濕地であったが、市はいづれ塵芥の埋め立て場にと計畫してゐるやうで、周邊の道路を舗装整備する等の開發が進められてゐる。ただ學校の東側は沼を埋め立てたまま放置され、走るコースの草を刈っただけの間に合はせだ。いづれにせよ、由水小學校のアンカーは鐵が選ばれてをり、自分たちの庭のやうなフイルドで負ける譯には行かなかった。

posted by ゆふづつ at 23:25| 日記 | 更新情報をチェックする