2010年08月22日

聖田 十

 見上げる木の間は青空なのに、何やらじっとりと脂汗が滲み、邊りも薄暗い。聖田へ眞っ直ぐ向かへば、もう半分は進んだかと思ふと、石段を上る脚が鈍くなって來た。ふっこは大丈夫か、と振り向くと、すぐ後ろにゐたが、外の二人が落伍しかかってゐる。道理で聲が遠いと思った。

「父母失ひて淺きに、なんぞ樂しき、はぁはぁ。吾もいみじく窶れたらば、父も母も苦しうこそ思はめ、はぁはぁ。迂闊に人を寄さば如何なる難儀にも遭はむ。はぁはぁ。心して身を護れ」

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 と、やっと追ひついて來たから、
「道誤りて深きに、なんぞ息急く。ワレもいみじく疲れたらばふっこも心苦しうこそ思はめ。迂闊に脚を泥まば如何なる難儀にも遭はむ。心して身を勵め」

 と諭してやると、芳キ、
「御坊も蟹におはせば、慌て何處やへ歩き。耳を切られて聞く物も無し。迅っとと歩いて聖田へ參りたうござる」
 と笑った。

 が、芳江が母親を三度、父親を二度も失ひ、今また大好きな邊サまで失ったのを思ひ出し、さすがに哀れになって顏を背けた。
「百傳ふ、八十きざはしに、脚なづむ、いもは忘れじ、世のことごとに」


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2010年08月21日

聖田 九

 この姉に口で太刀打ちは到底敵はぬと見た鐵は、いつものダンマリを極め込むことにする。

「腹を滿たした二人はすぐに打ち解け、若者が、父母兄弟やいづくに、と問へば、童は、父はをとつひの秋、母はきのふの冬に往にき、と應へき」
「をとつひ秋なのに、きのふは冬なの」
 と、ふっこ。いいぞ、しかし、甘いな。

「ヲトツヒは、遠つ日、遠くなってしまった日のこと。昨日の前の日とは限らないのよ。昔はね。ただ、今は馬鹿の一つ覺えになってゐるから、昨日の前の日のことなの」
「ふうん」

「キノフは、キノホよ。キノはコノと同じ、今目の前にあるといふ意味。ゐなかった人が現れたり現れなかったするのをキタとかコナイとか言ふときの、キやコも同じよ」
「ふうん」と、ふっこ、完全に丸め込まれる。

「けれど、昔の人は時間の感覺がのんびりしてゐるから、二十四時間前も平氣でキノフといふの。特に狭くここ數時間の間の現在だけを言ふときは、特に短くキフ、ケフと言ったりするは。だからキノフはケフを除いた昨日だけを表わすやうになったの。分かった?」
「へぇ」

「だから、童のお母さんが亡くなったのは、そんなに遠くない日なの。とくに、この子にとって、お母さんは忘れがたいから、まるで昨日のことのやうに覺えてゐるんだは」
 しーん。

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2010年08月20日

聖田 八

「笠掛物語って何だよ。聞いたことないなア」
 芳キに喋らさうと餌を撒くと、
「川岸の砂利道を、笠を被った若者が遡って行く」
 と始まった。

 小學校のとき、ガリ版刷りで讀まされた笠掛物語を、この小娘、否、鐵より二十糎も大きいのだが、は、暗で憶えてゐるのだ。異樣な記憶力の持ち主としか言ひやうがない。こんな調子だから小學校からづっと一番で通したりするんだ。お蔭でこっちは一年からづっと弟は馬鹿だア駄目だアと、言はれ續けた。

「そんな昔にわざわざ川辺に砂利を敷く人はゐないから、その砂利は鉄砲水の運んで來た土砂の跡だよ。まさかそんな恐ろしい道の脇に一軒家を建てた馬鹿もないだらうね」
 と無駄口を叩いて見せるが、
「世の中はネ、馬鹿がゐないと成り立たない」と來た。

「えへん。川上の山寺へ辿り着きたいのだが、もう邊りは山も空も辨へぬやうな暗さに、薄い麻衣を突き通すやうな寒さ。ふと見上げる若者の目に、陸の上の一軒家から漏れる燈りが見えた」
 とまるでNHKのアナウンサー氣取りだ。それが結構樣になってゐるから質が惡い。

「山も空も辨へぬやうな暗さなら、月や星も出てゐないんだ。まさか街路燈もないだらうから、完全な眞っ暗闇。川上の山寺どころか、小石にけ躓いて引っ繰り返っちゃふんぢゃないかな。もういい加減、諦めた方がいいと思ふよ」

「然う、若者もあんたの考へることぐらゐは考へたはよ。はて、かかる荒れ野に人の住むものか、と。若者は疑ったが、どうせもう行き場はないし。香ばしい煙に引かれ、中を覗き込んで見ると、汚い形をした童が一人、圍爐裏端に飯を喰ふてゐた。若者は戸を叩き、一夜の宿を乞ふたところ、童は喜んで迎へ入れた。と、最善の道を選び、その通りの結果を得てゐるわけ」


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