2010年07月19日

甲岳 竟

 渡邊は大三郎の誘ひに乘り、別荘で茶を喫してから歸った。胃を壞して酒は飮めないといふことであったが、上田藤三郎が重用してゐたのがよく分る。實に氣分の好い男だった。結局、何をしに來たのかよく分らないが、ともかくも歸郷の前にまた會はうと約束して別れた。

 大三郎も上機嫌のまま一風呂を浴び、冷藏庫の麦酒を出して來た。網戸の外は、甲岳が紅く燃えてゐる。この世のものならぬ美しさだ。いっそこのまま隱退し、この山で暮らすことが出來たらと、そんな希みまで湧いて來た。

 經濟的には不可能ではない。幾らかの畜への他に多少の退職金、共濟年金の當てもある。先祖の殘してくれた貸家からの収入もあった。たとひ四十そこそこの年齡で隱居したとしても、誰も咎める者はあるまい。

 さう考へると、胸に詰まった鉛のやうなものが、一氣に霧散するやうな氣さへする。若い頃に諦めた繪でも描きながら、朝から晩まで好きなやうにして過ごす。今更誰に譽められなくても結構。むしろ氣狂ひのやうに見えるだらうが、それもまた一興。何も煩はずに過ごすのも可いではないか。

 だが、果たして、その孤獨に堪へ切ることが出來るか。職を退いた大三郎など相手にする者はあるまい。ゐるとすれば何か下心のある人間ばかりだ。昔は氣の合ふた友人も、今は遠く離れ、或は違った環境に住む。偶に會ふても淡い歳月を思ふばかり。

 目を瞑ると、渡邊が、
「もう少し早く、お話がしたかったですね」
 と云ひ、深々と一禮して去った。その後姿が鮮やかに見えた。


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2010年07月18日

甲岳 十二

「故郷へ歸られて、どうされる」
 大三郎は來た道を辿った。
「分りません」
 渡邊は言ひ切った。まだ若いのに、何かあるな、とは思ふが、そんなことはどうでもよい。何か清々しいものが、柔らかな聲の中に響いた。

「私も數へで四十三になるのですが、未だ惑ふてをります」
 と水を向けると、
「六つの頃、こんな素讀を習ひました。子曰く、吾れ、十有五にして學に志し、三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知り、六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に從ひ、矩を踰えずと」

「ほぉ。何だか唐人の寢言のやうだね。少し講釋をしてくれませんか」
「自分も十代に中學へ入り、そこで色々と學び始めました。始めは向上心もあり、一所懸命でしたが、そのうち、どうもこれは違ふな、と思ふことが多くなった。本當に、この先生、正しいことを言ってゐるのかなと」

「嵌りましたな。さうなると、成績が下がるでせう」
「はぁ、初めは少々焦りましたが、そのうち、だんだん自分が變な奴だなと氣附くやうになる。これは一筋縄では行かんぞと」

「なるほど。三十まで、人はありとあらゆるものの間で揉まれ、削られ、磨かれて行く。さうして三十になると、やうやく自分の正體のやうなものが見えて來ると。さういふ譯ですか」
「しかし、その掛け値なしの自分といふものが、世間と折り合ひを附ける工夫といふのが、これまた難しい。これにやはり十年はかかるのでせう。私の場合は、まだ折合ひが附いてをりません」

「四十を超えた私に言はせれば、不惑といふのは、けして迷ひの消える年ぢゃない。不惑といふのは、もう自分の中の好きも惡しきも全てが出盡くして來る。さういふ意味では迷ひもないが、もう新しいものは出ない。それが不惑だ。さうすると、あなたなど、まだ進歩の餘地が有り得るのではないか」
 渡邊も樂しさうに、齒を見せて笑った。


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2010年07月17日

甲岳 十一

「この橋を渡るたんび、人生とは不思議なものだと、何時も思はざるを得ない。この先に、大本營の武器庫の跡がありましてな」
 別荘への道を過ぎ、澤沿ひの緩い坂を上がった。右に細い渓流を見下ろしながら、六尺幅の道を歩く。

 昭和二十年の八月六日、笠掛町に空襲があった翌日、大三郎はやはりこの道を歩いてゐた。前日に撃墜された敵戰闘機が發見されたとの情報が入ったのだ。大三郎はとうに負傷除隊し、笠掛の自警團に屬してゐたが、まだ癒えぬ右足を引きずりながら、團員の跡を追ひ駈けてゐた。

 あの時は眞夏だったが、青々と繁る山の景色は今と變はらない。甲岳の南側へ抜け、少し東へ入った木立の斜面に、その戰闘機を埋めた跡があった。搭乗員は重傷を負ってゐたやうだが、すでに團員が始末してゐた。戰後、米軍が進駐して來ると、その戰犯狩りが始まる。

 傷病者を狙ひ撃ちした搭乘員への行爲を問ふのは笑止だが、負け戰ではこれも仕方ない。大三郎は瀕死の捕虜を安樂死させたのは自分であるとし、町民には緘口令を敷いた。結局、なぜか、大三郎の下にMPが來ることはなかった。これも御堂の御加護であらうか。

 大三郎は木立に向かって拜禮し、しばし默祷した。振り向くと、渡邊もまた神妙な面持ちで佇んでゐる。
「ここらは、もう滅多には來ないのですが、何か不思議な氣配のする場所ですなぁ」
 大三郎は上着をとり、ネクタイを緩めた。二人はまた、澤の道へ降りた。

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