2010年07月22日

しらぬひ 三

 福子が這入ったといふナナの小屋は只の犬小屋ではない。ナナはこの家の守り犬。夜は廚の土間に寢るが、晝間は背戸の外で番犬を張る。ナナの反應の仕方で誰が來たか分る仕組みになってゐる。番小屋は鐵坊が造った。庭の木で作った大勞作である。

「だいたいナナの小屋なア、犬小屋にしてはでか過ぎる。犬小屋と便所は廣過ぎると落ち着かないもんだ」
 と藤サが云ふ。確かに一疊分ほどの横長で、ちょっと見には犬小屋には見えない。今はナナも大きくなったが、まだ仔犬の頃は餘りの大きさに、つい物置に兼用してゐたぐらゐだ。

「いっそのこと、もう少し建て増しをして、鐵の部屋にしたらどうだ」
 とは藤サの提案だ。昨年まで東の六畳間に寝てゐた鐵坊も、この四月、小學の五年生になってから玄關北四疊半の納戸に移った。六疊間は佛壇もあり、何かと持ち物の多くなった鐵には手狹になったからだ。

 お蔭で夫婦の北側六疊間が半分納戸になった。この六疊間はただ寢るだけの部屋だから構はないが、子供たちが大きくなって來ると、家全體が手狹になったことだけは確かだ。福子も一人で寢られるやうになってから、づっと芳江の部屋にゐる。そのために初めから二段ベッドまで誂へてゐた。

 食卓は東京のマヨサ母娘の話題に及び、ひとしきり賑やかになった。近頃、二人の食堂店舖兼用の住宅が店舖專用に改築され、母娘の住居は近くのアパートへ移ってゐた。

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2010年07月21日

しらぬひ 二

 もう夏休みが始まってゐる。子供たちも夜更かしの所爲か、少し目が腫れぼったい。
 朝食の御膳が揃ふと、
「ふっこは、どうした」
 と藤三郎が氣附く。鐵がさっと腰を上げ、南の八畳間へ。が、見當たらないらしく、縁側へ出た。藤三郎や芳江まで立ち、迷子搜しの大騒ぎだ。

 福子はこの秋には七つになるが、繼父にして戸籍上の父である藤三郎、それに二人の姉兄にたっぷりと可愛いがられ、やや甘ったれた、しかし拗ね癖のある子に育ったやうだ。

 今朝もどうせ何處かに隱れてゐるだらう。さうして、皆を困らせ、注目を浴び、得意になるつもりでゐる。もう小學校に上がったのだから、大概にその癖を直しておきたい。さう思ふ雪子は知らん振りを極め込んでゐる。

 案の定、間もなく鐵が背戸から戻った。
「そら、母さに叱られるぞ」
 福子を框に上げ、また表へ囘る。福子は叱られるのを覺悟、口をへの字に結んだまま、雪子の反對側、芳江の座ってゐた椅子へ囘った。芳江が戻れば、また讓ってやるだらうと、雪子は背中へ囘り、脇の下を掴んで持ち上げた。

 さうして藤三郎と自分の間の椅子へ落とし、駄目を押した。我が娘ながら、まったく強情で困る。しかし周りは口を揃へ、雙子のやうな母娘だといふ。言はれて見れば顏立ちも似てゐる。或は物の心も瓜二つなのかも知れない。ふっと目が合ふと、向かうも雪子と同じやうな顏をしてゐた。さうなるとついをかしくて、口元が緩んでしまふ。何ともだらしない母親であった。そこへ、やうやく皆が歸った。

「ふっこは、どこにゐたと思ふ」
 藤三郎が訊くから、
「屋根の上ですか」
 雪子の應へに、みんな笑った。
「惜しい。屋根の下だ」
 屋根の下。鐵が默って背戸の方を見る。なるほど、分った。ナナの小屋の中にゐたらしい。困った娘だ。

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2010年07月20日

しらぬひ 一

「あの便所の鏡な、玄關の壁がいいな、やっぱり」
 と藤三郎が云ふ。
「鐵に言って下さいな」
 雪子が應へると、
「あれ、どうも掛け場所が惡いなぁ。どっこらせう」
 と藤三郎は腰を掛けた。

 廚の卓は、主の藤三郎が腰を痛めてから洋テーブルに變はった。使ひ馴れた藁の座布團に替はり、木の椅子が置かれてゐる。家族は五人だが、八つ置かれてゐる。席は決まってゐないが、だいたい來た順、西側から反時計囘りに掛けて行く。

 鏡は鐵がどこか遠足の土産に買って來たもので、初め晝寢中の雪子が狙はれ、次に芳江の頭が温められ、次に藤三郎の後頭部が照らされた。どうも眩しいから、その光源を手繰ると、庭に鐵と鏡がゐたといふ譯だ。

 どこかに附けてもいいか、と雪子に尋ねるから、どこでもいいはよと應へたら、御不浄の正面の壁に掛けた。確かに用を足すとき自分の顏を見るのは閉口だが、立ったままする藤三郎には、見える場所が違ふやうだ。

 起きて來た鐵に、
「こらっ、鐵、あのちんこ鏡、玄關に移せ」
「えっ、あア、鏡、分った」
 鐵は父親の次に腰掛けた。そこへ姉の芳江も現れ、
「外に掛けるのよ、戸の外。やんちゃの鏡だから」
 と鐵の肩を叩き、竝ぶ。

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