2010年07月28日

しらぬひ 九

「午後も出かけるの」
 開子が尋くと、芳江、
「いいえ、もうぐったり」

 中學の音樂部、笠中フィルハーモニックは、芳江たち由水小學校以来のグループが引っ張って來たが、秋には芳江たちが拔ける分、年末に行はれる縣の音樂コンクール、創部から五年連續入賞が覺束ないらしい。

 芳江がコンクール用に作った曲の演奏が旨く行かない。二年生以下には芳江のやうなリーダーがゐないのだから仕方がないやうだが、「もう少し普通の曲にしたらどうなの」と開子が忠告しても、芳江は首を縱に振らない。今の技量で安易に彈いたところで、來年の今頃はもう廃部になるだらう、と言ふのだ。

「でもフィルハーモニックって名前がすごいぢゃない。ベルリンフィルハーモニック」
 開子が茶化すが、
「小母樣ありがたうございます。私はもう蛇になりますからフィルハーモニックの看板が外れても構はないんです」と穩やかながら、もう諦めたやうなことを云ふ。

 開子は目を丸くし、ぺロッと舌を出して、
「さう言やぁ、大見の健作君。一人で大法螺、ぢゃなくホルンを吹いてゐるさうぢゃないの。聞いたことある」と尋いた。

 健作は市の助役の息子で、芳江とは中學の同學年だ。御堂橋から聖田へ拔ける澤道を夜歩くと、法螺の音が聴こえて來る。

 笠掛落城の祟りだと噂が立ち、警察が調べたところ、大見家の別荘で健作が吹いてゐた。大見家の先祖は忠魂六士の一人で、落城に際し、北の方に殉じてゐる。やはり祟りではないかと、まるで夏の夜の怪談。健作には氣の毒な話だった。

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2010年07月27日

しらぬひ 八

 チャリっとナナの鎖が鳴った。誰かが歸った合圖だ。
「姉さだ」
 と、ふっこ。

「あら、本當」
 と開子。背戸に芳江が現れた。
「ただいま、をばさま、ちょっと遲くなりました」
 と御挨拶。そのまま着替へに入った。

「何だか、隨分と大人になったぢゃない」
 と、開子、聲を顰める。やはり、さうなのか、と雪子も思ふ。毎日見てゐる分には定かではないが、それでも最近はおやっと思ふほど大人びたと思ふことがあった。元々年よりも隨分とおませではあったが、それとは別の女らしさが出て來たのだ。

 秋には十五になるのだから當然と言へば當然とは言へ、やはり少し寂しい氣もする。自分のその年を思ひ出しても、頭の中では結構一端の戀愛經驗もしてゐたし、親のことなど考へもしなくなる。

「あなたも、やっぱり羨ましいのね。嗚呼嗚呼、たうとう若い人が羨ましいだけの年になっちゃった」
 と開子が笑ふ。もう四十を超える開子が歎くのを、ふっこが如何にも氣の毒さうに見上げてゐる。 

 それに氣附いた開子、
「あれっ、人のこと馬鹿にして」
 と大人二人で笑ふ。そこへ芳江が戻り、暑いのか上氣して紅い顏をしてゐる。ポカンと團扇で扇ぐその顏がをかしく、今度はふっこまでケラケラと笑った。

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2010年07月26日

しらぬひ 七

「それはいいけど、あなた、邊サのこと、お父樣から聞いてなくって」
 と開子が尋く。
「邊サ、ですか。何か、あったのですか」
 と、厭な豫感が胸を走る。渡邊康夫はすでにKKも離れ、何もせず遊んでゐるといふ。まだ三十代半ばの働き盛りだから、惡錢を身に着けた、と噂する人もあった。

「やはり、お腹の具合でも惡いのかしら」
 と尋いてみると、
「内の人もさう言ふんだけれど、藤サにもよく分らないらしい。確かに少し痩せたやうな氣もするし、顏色も良く無い。年の所為ばかりぢゃぁないと思ふは」

「晴美ちゃんも芳キも、もうしっかり一人前。邊サも安心したんぢゃないかしら。この際、少し體を休めた方がいいんぢゃないかしら」
「さうよねぇ。文子さんに義理立てするのもいいけど、もう亡くなっちゃった人。そろそろ自分の事を考へても罰は當らないと思ふんだけど」

 この秋には彼の婚約者だった文子の十五周忌が來る。邊サは晴美芳江の姉妹の父親ではないと言ひ、實際、餘り似てゐるとも思へないが、本當にさうなのだらうか。文子へ義理立てしてゐるといふのが確かなら、僅か數日の交際で康夫の心を捉へた文子とは、いったいどんな人だったのだらう。

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