2010年07月31日

しらぬひ 十二

 一時間ほどもすると表に車の音がする。ナナが吠えないから、藤サがタクシーででも歸ったのであらうか。と背戸を出て見ると、マヨサの母娘が大きな風呂敷包を下げて來る。藤サもだ。

 母娘とは先月もサヨサの命日で逢ふたばかり。また八月の盆にも來るだらうと樂しみにしてゐたが、實は東京の家に少々の改築があり、休業ついでに歸ったのだと言ふ。何のことはない、藤サは東京のサヨサの家に行ってゐたらしいのだ。

 風呂敷の中身は苞物やら着替へやら、今夜はここに泊まり、明朝は實家へ、晝には歸京するらしい。もう六年生になった美代ちゃは、毎日母親を手傳ふのであらう、雪子の三人前以上の働きはした。

 藤サの抱へてゐた風呂敷は信州土産の梅干で、この堅く漬けた梅と紫蘇で握ったお結びがサヨサの大好物だったさうだ。それを思ひ出したマヨサが久し振りに握ってみようといふことになり、それが藤サの電話になったものらしい。

 藤サも東京へ行くならさうと言ってくれればよいものを。とは言へ別に隱してゐる樣子もないし、何より清々しい母娘が詰まらぬ嫉妬など吹き飛ばして仕舞ふ。ともかくも厨は御飯を炊いたりの大童になった。

 その内に芳キとふっこ、やがて鐵も歸り、一段と賑やかになった。藤サが子供達を連れて芳江の部屋へ籠り、中から歡聲が聽こえる。まるでみんな小っちゃな昔に戻ったやうだ。

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2010年07月30日

しらぬひ 十一

「正直言ふと、見かけによらず隨分と氣の強い子だと思ったこともあるは。ふっこがまだ二三歳の頃だったかしら、忙しいのにあんまり言ふことを聞かないから、私も思はず癇癪を起こして、ぴしゃっとホッペを引っ叩いたことがあるの。ちょっと強く叩いたものだから、ふっこも吃驚して泣かなかったぐらゐ」

 そしたら芳キが、
「母さん、かはいさう」
 さう強く云って、私を睨んだの。さうしてふっこを抱き上げてくれたことがある。それが芳江の雪子に對する反抗らしい反抗の最初にして最後だった。
「何だ、芳キのことか。ふぅん、そんなことがあったの。あなたも一寸、ふっこちゃんに嚴し過ぎるところがあるから」

「別にわざとしてゐる譯ぢゃないは。ただあの人もああ甘やかしてしまふし、芳キや鐵もさう」
「あなたは損な役囘りをしてゐる。それでバランスが取れてゐるといふのは、ふっこちゃんも大人になったらきっと分かるは」

 話は教育論に及び、藤サが父親のゐない家庭で育ったこと、五歳のときに母親を失ひ、やうやく實父の家に引き取られたこと、そこでは慈愛に滿ちた繼母の薫陶を受けたこと、今の藤サの血の繋がらぬ子供達への愛情は繼母讓りのものであるといふこと、さういふ開子の持論にまで展開した。

 開子は蟲干しの取り込みまで手傳ってくれ、夕刻にまた夫婦で來るからと、急いで歸った。晝過ぎに來た藤サからの電話によると、今日は晩ご飯を持って歸るといふ。さてどんな御馳走であらうか。

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2010年07月29日

しらぬひ 十

 晝食の後、芳江がふっこを連れて羽多岐へ出かけた。用高園のプールへ水浴びに行くと言ふ。何か別の用事があるのかも知れないが、兔も角もふっこを連れ出して呉れるのは有難い。

 背戸から見送ると、縁側の籘椅子へ席を移し、また話が彈む。
「いいお姉さん持って、ふっこちゃんも幸せ」
 と譽めて呉れるから、
「芳キはああ見えても結構優しいのよ。さっきもフィルハーモニックのこと、ちょっと言ってたでせう」

「蛇になるからどうだとか」
「三年生の芳キ達が引退したあとは、二年の友紀子ちゃんて子がマスターになるんだけれど、もう今年のコンクールは落選確實だなんて、前評判が喧しいみたいなのよ」
「なるほどねエ、引退すれば手足がもがれる。それで芳キ一人、カリカリしてるって譯ね」

「もし落選でもしたら、やはり友紀ちゃんぢゃ駄目だ、音樂部なんて廃止だって、さうなるでせう。だから今のうちに廃めといた方がいいと思ふんだけれど、芳キはさう思はないみたいなの」

「私らの頃の音樂部なんて、玩具の笛をふうふう吹いて遊んでただけなのにねエ。その友紀ちゃんって子、小學校の頃から仲良かったんぢゃないの。湯地のお百姓さんの娘ぢゃない」

「さう。ともかくも彼女を後繼者にしようとはりきってるみたいなの、芳キの方は」
 しかし暢気にプールなんか行ったりして、大丈夫なのだらうか。

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