2010年06月18日

忍ぶ草 四

 鐵坊が湯から上がると、芳キも來て、もう寢てはゐられない。熱やくらくらも無くなり、皆のゐる食堂へ集まった。父と邊サが飮ってゐて、雪子にも一口だけ、注がれた。

 風呂上りの芳キに手を合はせて拜むと、默ってニッコリと笑ふ。洗濯の取り込みなど、やって呉れたに違ひないのだ。見咎めた順子が、「本當、芳江ちゃんには大きな借りが出來たね」
 勞るふやうに言ふと、含羞んで頷く。

 雪子が初めて由水下へ移った日、記念にと贈った手作りのリボンを、芳キは大事に結んでゐた。初めは難しさうな娘だったが、間もなく打ち解けて呉れた。あの湯水下の家には、ある種のをかしみ、おかしさといふものが漂ってゐる。それが主である藤サの人柄によるものか、或は亡くなったサヨサの遺したものか、おそらくは両方なのであらう。

 母親の順子がお粥を出してくれた。
「どうしたい。まだ熱があるのかい」
 その手がピタッと額に當たり、
「大したことないね」
 ついでに背中を叩いてから、オカカをつけてくれた。

 五人、みな靜かに箸を運ぶ。殘りの一人、鐵坊は、もう食べ終へたらしく、獨りで何か考へてゐる。或は東京の美代ちゃのことかな。
「藤サは、今日はお歸りになるの」
 邊サに尋くと、
「タクシーを飛ばすさうだから、もうそろそろ着く頃かな。今夜は會社でグゥでせう」
 藤サや邊サは仕事が遲いときなど、會社に寢泊まりすることがあった。それにしても今日はみんな大變。雪子の所爲でひどい目に遭った。

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2010年06月17日

忍ぶ草 三

 父親の診察を受けた雪子は、小さな丸藥を呑まされ、そのまま眠りに就いた。氣が附くと、もう夕方。診察室の脇の寢室に、鐵坊と渡邊がゐた。起きようとすると、
「三日間の解雇處分ださうですよ」
 と渡邊。

 鐵坊がハイヤーを止め、雪子を島田醫院まで運んで來たのだと言ふ。雪子にも薄々の意識はあったが、ともかくも激しい目眩に天地がひっくり返った。もし鐵坊がゐなかったら、何とも無樣なことになっただらう。
「夕御飯を作らなくちゃ」
 起き上がらうとするのを、
「ヨシキも、直きこちらへ來ます」
 と渡邊。藤サは東京へ出たまま、今日も遲い。だから芳キも鐵坊もこちらへ來て泊まるのだと言ふ。

 そこへ母親の順子が現れ、
「お言葉に甘えて、二三日は休ませて貰ひなよ。また倒れては却って迷惑になるだえ」と心配顏をする。「ここ何年かの疲れに身重まで重なって、たうとう體が音を上げたんだよ。もう二十歳の乙女ぢゃないんだからさ、無茶は利かない。これで濟んだのが勉強と思はなくちゃあネ。さァ鐵坊、こっちへお出で。お風呂へ入らう」
 順子は鐵坊を連れ出した。

「幼稚園の方はどうなるのかしら。途中で氣分が悪くて逃げ出して來てしまひましたが」
「放っておけばいい。もう美代ちゃもゐないのだから、無理に通ふことはない」

 確かに、さうだ。鐵坊は小さいのに手を燒かせるといふことが無い。大人の氣配を察し、家事の邪魔になるまいとする。賢い子だった。が、それだけに尚いとほしい氣もする。
「やっぱり新しいお母さんも亡くして、寂しかったのかしら。女の子に亂暴をするなんて、とても信じられないは」

「向うが惡い。前にも鐵坊を河童の子と揶揄ったのがゐる。そのときは先に手を出した鐵坊が惡い。もう二度とやらないと誓って濟ませたのが、今度は二度目。もう確信的にやってゐるんです。さっき持ち歸った鐵坊の鞄には、自分の上履きまで入ってゐるさうぢゃありませんか。もう幼稚園に行くつもりが無い證憑ですね」
 と、なるほど。鐵坊が鞄に上履きを入れたのは見たが、それがさういふ意味だとまでは思ひ當らなかった。

 
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2010年06月16日

忍ぶ草 二

 副園長の説明に據ると、かういふことだ。鐵坊が女児に體當りし、女児は轉倒、臂の邊りを少々擦り剥いたらしい。いづれ鐵坊にも言ひ分があるだらうが、當の本人が固く口を閉ざしてゐる。何の辯解もしないのだと言ふ。

「ともかくも、相手は女の子ですから、亂暴はいけません。今、念のため病院で診て貰ひましたが、幸ひ大した怪我ぢゃないやうですがね」
 毬栗頭、顎に髭の剃り殘し。イヤな男だ。
 
 すると、女児の母親らしいのが、
「怪我のことをとやかく言ふのではありませんよ。ともかくも人の大事な子に怪我をさせておいて、謝りもしないんですから、御宅はどういふ教育をなさってゐるんでせう」
 と興奮するのを、副園長が手で宥め、
「まぁ、こちらも母親を亡くしたばかりだし、こども同士のこと、餘りことを荒立てるのもなんですから、あとは私どもにお任せを戴けませんか。ま、取り敢へずは被害者の方に御詫びを」
 と、お鉢を囘された。

 どうやら鐵坊一人に責めを負はせるやうな風向きだが、今ここで話をこん絡げても仕方がない。それに何だかムカムカ吐き氣もして來た。鐵坊には惡いが、ここは無言のまま頭を下げ、この場から逃がれようと思った。いや、名誉の撤退だ。鐵坊の手を取って部屋を出ると、ぞくぞくと惡寒まで走り出す。

 高が子供の喧嘩だ。しかし、本當にそれでいいのか。何か間違ひがありはしないか。しかし頭が朦朧として來る。やうやう堤の道まで出たとき、急に血の氣が引き、白い空が見えた。腕が鐵坊の手に掴まれたかと思ふと、そのままだらしなく仰向けに轉んだ。

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