2010年06月21日

忍ぶ草 七

 仔犬のナナは母屋のお勝手口で一夜を明かし、翌朝は主の鐵坊に連れられ、散歩へ出かけた。もう幼稚園へ行かぬなら、ちゃうど良い友達が出來た。背戸から見送ってお勝手へ戻ると、食卓の藤サ、
「葛飾のマヨサたちも、元氣でやってゐるやうだ」
 新聞を脇へ置き、天井を仰いだ。

 雪子がマヨサから家を引き繼いだとき、家計費の餘りだとして一冊の貯金通帳と印鑑が渡された。あとで見ると、百五十萬もの大金が殘ってゐた。この笠掛なら家屋敷が何軒も買へる金額だ。邊サに尋くと、マヨサには、毎月の家計費に給金を合はせた六萬円が支給され、一切が任せられてゐたとのこと。

 つまりマヨサは毎月二萬圓にも滿たぬ豫算でこの家を賄ひ、殘りはすっかり置いて出て行ったことになる。藤サもさういふことになると見越し、それで葛飾の家を與へたのであらうか。雪子も同じ條件で後を繼いだ譯であるが、しかしさうなると、この家の豫算は二萬圓を超えることが出來まい。

 まして、もうサヨサも美代ちゃもゐない、鐵坊も幼稚園へは行かぬと見える。實際、マヨサの殘した家計簿に據ると、最後の七月の出費は、幼稚園や法事の費用などを除くと、食費として、お茶140圓、梅50円、ワサビ25円、りんご140圓、そば20圓、ソース60圓、麥900圓、お米1,174圓、糠14圓、食用油80圓、鹽醤油180圓、菓子ラムネ代外200圓、麥茶12圓等、魚屋二千圓の計五千圓ほど。

 家事衞生服飾費として、天花粉60圓、醫者代325圓、お藥75圓、蝋燭20圓、カーテン金具80圓、ペン10圓、ホック40圓、芳江床屋60圓、ふすま紙100圓、 鐵坊芳江ズック100圓、齒磨粉50圓、服地720圓、石鹸40圓、富山藥240圓、マッチ23圓等、ざっと二千圓ばかり。      

 教育娯樂費として、花火5圓、芳江200圓、鐵坊100圓、タバコ70圓等の四百圓弱。交際費として、電車賃100圓、葉書20圓、光熱費として、電氣512圓、外燈電氣代30圓、燈油450圓の約千圓、その他子供保險760圓、火災保險300円、電話10圓で、總計して一萬圓にも滿たない。
 
 しかし月額六萬圓のうち、出費した殘りが給金になるといふのも妙なものだらう。これでは家計費を節約すればするほど給料が膨らむ計算になる。マヨサも隨分と儉約した揚げ句、全部を置いて出て行く羽目になったのではないか。と、冗談混じりに尋いてみたら、藤サもそのことは知らなかった。さうした細かなことは全て邊サが與かってゐる、といふことらしい。この家のことはまだまだ分からぬことが多い。

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2010年06月20日

忍ぶ草 六

 犬もゐることだし、結局はみんなで歸ることになった。藤サもビールが入って、少々ご機嫌だ。清吉が邊サに緑色の藥包を渡してゐる。胃藥だらう。この色男は氣の安まる暇もない。いつまで獨りでゐるつもりだらうか。と、雪子も人の心配をしてゐる處ではない。お腹の子が腹の壁を蹴ってゐる。清吉のやうに、晴れ晴れした男がいいな。

「もう倒れるんぢゃないよ」
 順子は威勢良く戸を閉めたが、やはり寂しいのぢゃないか。島田醫院が、暗寂しく見えた。まだ八時だが、この田舎町は閑まり却ってゐる。何處からか蟲の音が喧しく競ふ。そこを藤サを先頭に、犬を抱いた鐵坊、芳キと續き、やや離れて雪子と邊サが尾いた。

「今日は御免なさい。何だか假病だったみたいだは」
「假病ね。何事も天の差配ぢゃないかな。この御天氣も、明日はどうなるやら」
 と掌を上に向け、「あぁ、晴れてる」
 と、確かに。雲の切れ間に星が見える。みんなも空を見上げた。

「織姫星だは」
 雪子が云ふと、
「かはいさうに彦星樣が隱れちゃってる」
 と藤サ。「やっぱり七夕の夜にしか逢へないのかな」と、身につまされてゐる。

 オルフェウスの妻は毒蛇に噛まれて死んだが、オルフェウスは冥土の神ハーデスに、琴を彈きながら妻を戻すやう頼んだ。ハーデスは願ひを聽き入れ、妻を返すが、途中決して振り返ってはならぬと命じる。もし振り返れば、妻は死んでしまふからだ。

 ところがオルフェウスはもう直きといふところで振り返った。オルフェウスは死んだ妻に戀ひ焦がれ、たうとう身を投げ出して死んだ。織姫樣も雲に隱れ、代はりにぽつっと天が下垂った。


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2010年06月19日

忍ぶ草 五

 呼び鈴が鳴り、やうやう藤サだ。順子が迎へに出るが、なかなか現れない。玄關でガヤガヤ、何やら騷がしい。まづ鐵坊が出、邊サが行き、芳キが續いた。狭いダイニングに清吉と雪子、似た者同士が目を見合はせる。
「お前、もう歸ったらどうだ」

 なるほど、ここに泊まる理由もない。體の方も、無理さへしなければ何とかなりさうだ。それに、もう川邊の家が懐かしい。お腹の子と二人で、どうなってもよいと、川縁を彷徨ったのが夢のやうだ。やはり、あの日はサヨサが呼び寄せて呉れたのではないか。そんな氣さへした。そんな氣持ちを知るかどうか。清吉は、
「まぁ、いい」
 グイと呷った。 
 
 やうやう現れた鐵坊が仔犬を抱いてゐる。
「何だ、子分か」
 清吉が咎めると、
「なな」 
 鐵坊が吃る。
「ナンだ、名無しの權兵衛殿か」

 藤サが會社へ寄り、ここへ歩いて來る途中、道端で拾ったのだと言ふ。夕方の小雨で濡れ、可哀さうでもあるから、藤サが抱き上げると、逃れようとアヒルのやうな聲で泣く。
「何だかご機嫌ななめだから、ナナだ」
 と藤サらしい命名だ。さっそく鐵坊の家來になったらしい。藤サが増え、七人と一匹のテーブルになった。肩がぶつかるやうな所狭さだ。

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