2010年06月27日

忍ぶ草 十三

 しかし寢なければと、もう一度寢直し、淺い眠りから覺めてみると、今度は日差しが眩しい。九時を過ぎてゐた。體がどうにかなってゐる。

 食堂へ下りると、邊サに鐵坊、それに順子。みな、お化けにでも遇ったやうに目を逸らす。
「お早う。もう大丈夫ですよ」
「何を暢気なこと云ってゐるんだい。いま何時だと思ってゐるんだ。こちらが心配して來て下さったのに」

 洗面を濟ませ、流しに立った。鐵坊を呼び、手を洗はせる。
「この病氣はね、たぶん精神的なものでせう。普通に動いてないと、却ってをかしくなるは」
 父のゐないのを幸ひ、能書を言ふ。海苔の上に御飯を載せ、梅干を入れて結ぶ。母のゐないときはいつもかうだ。
「握り過ぎちゃった。邊サも、どうですか」
 小さめのを五つ握った。これで飯櫃は空。平皿に載せ、お絞りを添へて出す。

 鐵坊が喰ひつくのを見、邊サもひとつとった。
「いつもながら、器用だなぁ」
 と珍しい無駄口。
「どうですか。やはり上田家の離れはお拂ひ箱かしら」
 雪子は冗談のつもりで言ったが、邊サの顏に何か走った。あらあら、本當にさうなるのか。それでも仕方ないな、と思った。

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2010年06月26日

忍ぶ草 十二

 その夜、夢を見た。由水下の屋敷が荒れ果ててゐる。藤サはどこにゐるのか。子供たちは大丈夫だらうか。屋根は苔生し、疊はささくれ、ガラス戸は破れ、庭に青草が茂る。どこからどう手をつけたらよいのか。

 お腹の膨れた雪子が引き受けること自體、土臺無理な話なのだ。それもこれも、あの邊サが勸めたことだが、一見暢気さうなマヨサ母娘の代はりぐらゐに思ったのが大間違ひ。小さな美代チャ一人でも、雪子より餘程ましであったとは。

 藤サも邊サも雪子を買ひかぶり過ぎてゐる。買ひ被った揚げ句に、今更始末に困り果ててゐる。このまま倒れ、出て行かなければ、萬事が好都合に運ぶのだらう。

 さうだ。ここまま東京へ戻り、音樂教師にでもならう。今なら、多少の畜へもあるし。この子の親父の死んだアトリエ近くに家でも借り、ひっそりと暮らすのが好いかも知れない。お前のお父さんとは仲良く出來なかったけれど、思ひ出の中だけなら一緒になれるし。優しいお父さんだったからねエ。

 考へたら、藤サも邊サも、いや父親の清吉や順子も、この町の生まれではない。雪子も、敢へてこの町に住む理由もない譯だ。ここはもう住む場所ではない。御免よ。わたしの所爲で窮屈な思ひをさせて。

 よし。明日はもう引き拂はう。さう思ふと目が覺めた。隨分判然とした夢だ。夢のまた夢。



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2010年06月25日

忍ぶ草 十一

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 結局は島田醫院の世話になった。病室は二階の雪子のゐた部屋で、僅か一月で逃げ歸った譯だ。意固地になって由水下にゐても、だらしのない體が何時また音を上げるか分かりやしない。結局は藤サや子供たちを振り囘すだけになる。

 情けなくて泣きたくなるが、今はそんな時ではない、とばかり、お腹の子が腹を蹴り上げる。ひょっとしたら男の子かな。父親はちょっと氣弱で色々な缺點はあったが、今では彼の見、聞き、思ってゐたことが、よく分かるやうになった。

 もう死んで黄泉の郷へ往って、初めて心が繋ぎ合ふことにならうとは。兔も角も、その遺してくれた子を大事に育てるまで、倒れる譯には行かなかった。

 夕刻、落合の大倉家から子供達が來た。開チャに言はれたのだらうが、顏を見るとやはり嬉しい。まだ一月の附き合ひだが、もう我が子のやうに思へる。芳江が棚の樂譜を眺めてゐる。
「好きなのを持って行っていいはよ」
 と云ふと、にっこり頷いた。

 由水下のピアノは芳キの西の部屋にあり、まだ樂譜も十數册ほどしか竝んでゐない。それも學校で使ってゐるものを除けば、サヨサの遺した數册のみ。形見分けで貰ったサヨサのレコードなど、自室へ持ち込み、ためつすがめつ眺めたりしてゐた。

「ぢゃ、これとこれ」
 二册取り出した。シウベルトの全集と、リストのベエトホベン交響曲全集。とても子供の選び方とは思はれない。かういふ耳の子はきっと旨くなるだらう。

 鐵坊はと見ると、芳江と雪子の顏を見比べてゐる。
「さうだ、鐵坊、ナナはどうしたの」
 と尋くと、「うんにゃ」と首を振る。
「ぢゃ、どうしたの。あ、なるほどね」

 大倉の家は落合下の市營住宅。犬は飼へない。
「そりゃ、可哀さうなことしたねぇ。お屋敷で留守番なの」
「いいや、いまつれて來た」
 と階下を指す。なるほど、早手回しだ。ここなら雪子といふ、行き場ない同士もゐる。餌とその邊の散歩ぐらゐなら、雪子にも出來た。

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