2010年06月30日

ふっこ 二

 みんな歸ったあと、清吉だけ殘った。ちびりちびり飮りながら、
「ふっこねぇ。それでお前、父親のことはどうするんだ。父親が誰であるかは、お前しか知らん。しかし、世の中は誰が父親か決めたがるだらう。いづれこの子も氣にするやうになる」

「分かってゐます。私には父親のない子の氣持は分からないけれど、やっぱりこの子には必要なのかも知れない」
 さうだ、ふっこは福子がいい、雪子は心に決めた。
「私はこの子の父親を追ひ詰めてしまった。死んだあとになってそれがよく分かる。この償ひは一生をかけてしなければならない。この子のためには、どんな辛抱でもしなければならないは」

「しかし、それはお前の胸の中に藏っておくことだ」
「分かってる。この子には本當のことだけを言ふ。裁判にはしたくないは。あの人には自分の子だと分かる筈。それで十分だから」
「ならば、それでいい。人はみなお前が思ふほど強くはない。弱いのはお前だけぢゃない。何もかも一人で背負い込んだら辛くなる。これからは藤サや邊サに頼ればいい。お前もそのつもりでゐるんだらう」

「サヨサの奧樣が亡くなる少し前、お葉書を戴いたことがあるの。桃の實が生ったから見に來いと。その頃は色々と惡い噂を流されてゐたし、桃は鬼女を退治する實だから、てっきり恨み事を言って來たと思ったの」

 雪子は當らず觸らずの返事を書いたが、あれこれと思ひ惱んだ揚げ句、つひに退職の意思を固めた。するとサヨサから二通目の便りが來た。やはり桃の實のことが書いてあった。

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2010年06月29日

ふっこ 一

 雪子の出産は十一月にずれ込み、丈夫な女の子が生まれた。ともかくも、邊サや子供たちは毎日來てくれたが、やうやく落ち着いた五日後の晩、邊サの代りに藤サと子供たち、それに大倉夫妻が見舞ってくれた。

 産室に使はれた六畳間、七人が母子をとり圍み、
「もう名前は決まったの」
 と開チャ。
「それがまだなの」
 と順子。

 すると藤サ、「今は親馬鹿な名が多いが、そもそも名は人から貰ふもの。名にし負ふって言ふぐらいだはさ。しかし、まだ赤ん坊だと名ってほどのものはない。仕方なしに親がつけたもんだ」

 藤サはもう出來てゐるらしく、心地良ささうに、
「邊サの兄弟なんか、親父の友達が出征した日に生まれたからトモユキ、二番目は藥罐で火傷したからアツ、三番目が豐作だったからトシ、四番目が死んで、次に生まれたのが康夫。本當は昭和生まれでアキヲとつけたかったさうだけど、これは次の弟に囘された。奴はいつもタイミングが惡い。そもそも俺なんかに隨いて來たのが間違ひの因だ」

 順子、「まあ御氣の毒。今ごろはクシャミなさってますよ」と同情し、皆が吹き出した。雪子も子の名前は氣にしながら、何とも決めかねてゐた。目鼻立ちと言ひ、膚の白いのと言ひ、をかしいぐらゐ自分に似てゐた。

 次に開チャ、「でも今は一度つけた名がづっと變はらないから困るの。もし雪ちゃが日に燒けたらどうにもならないは。くれぐれも愼重にね」
 
 すると、「ふっこ」
 鐵坊が上を見上げ、鶴の一聲。壁の物挾に、「ふっこうぎえん」と平假名で書いた團扇が插してある。町の復興義捐協會が記念に配った古いもので、「ふっこ」の文字だけ覗いてゐる。

 鐵坊には平假名片假名を教へてゐた。それを思ひ出したのであらう。みなの視線が團扇からふっこへと降りると、ふっこの方も、何やら眞劍な眼差しを鐵坊に向けてゐる。目を眞ん丸にし、嬉しさうな表情をしてゐる。

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2010年06月28日

忍ぶ草 十四(竟)

 雪子の朝食が濟むと、邊サが用高園に誘った。鐵坊も一緒。清吉の許しもあるといふので、雪子が遠慮する理由もない。藤サの意思も、いづれ働いてゐるだらう。

 用高園は羽多岐に出來たばかりの遊園地だ。江戸時代には蘇芳藩の馬場があった。明治後は町立の公園になってゐたものが、民間に渡り、樣々なアトラクションが出來た。笠掛市内では始めての本格的遊覽娯樂施設だった。

 遊園地の設立には廣見や藤サの協力もあったらしい。或は邊サも何らかの形で關はったかも知れない。園は羽多岐驛の東北方にあり、邊サの車でも片道の十數分はかかる。ちょっと散歩といふには遠すぎる。車が中央の坂道を下ったところで、「何だか怖いは。何かお話でもあるのですか」と尋いてみた。

「何も考へんで」と渡邊は奧なし、「藤サのゐない留守に命の洗濯。なぁ、鐵坊」
 と振り向くと、窗に顏を當ててゐる坊が、
「何も考へん藤サのゐない留守に、あの掃除に洗濯、なぁ」
 と譯の分らんことを云ふ。

 仕方なく邊サ、「一人でをると、ろくなこたぁ考へない。しまひには胃藥を、放せなくなる」
 いっいっい、と聲を出さずに笑ふ。苦しい。

 さう言へば、このところよく島田醫院に來てゐるらしい。今日も會社をサボって。思ったより胃を悪くしてゐるのかも知れない。その端正な顏立ちが、土ぼこりの所爲か、やや土氣色にも見える。その顏で、
「今日は芳キもゐたら良かったのに」
 芳キはこのところ學校が遲い。ときに夕食間際になって歸ることもあった。

「鐵坊は、廣見のをぢさんちと今の家と、どっちがいいんだ」
「あの家は狭いから好かん」
「さうか。ならマヨサの後を繼いだユキサが駄目になったら、あとは鐵坊でも後釜に据ゑるかな。一人で大丈夫だよなぁ、鐵坊」
 眞顔の問ひに、少し間を置いた鐵坊、
「釜にすわるのは、熱いからやだ」
 全くもう、この二人には敵はん。

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