2010年05月19日

忘れ水 八

「俺はあれを女房にしてゐたつもりだが、あれが死んだら、また分らなくなった」
 藤三郎は鮎の尻尾に齧り附いた。廣見もグラスを干し、「そりゃさうだ。我々はついものを分らうとするが、ものが分るとはキ合よく見ることだからね。分るってことは複雜に堪へるのを忘れることだ」

「とくに女の複雜に堪へるのは難しいだらうからな。女のある部分だけ便利に利用しようといふ魂膽だ」
 藤三郎は大コ利を空にし、追加の手を叩いた。客がちらほら行き交ふやうになった。
「どうして由水下の土地を手放さうとしない。お前は本當は開發に反對なんぢゃないのか。それともただ値上がりを待ってゐるだけか」
 廣見はかねがねの疑問をぶつけた。
「いま賣れば、あっといふ間に家が建っちまふ。使ひ道はお前が考へてくれよ」

「分った。そのうち考へておく。しかし瑶代さんが開子に泣き附いて來たやうだぞ」
 彼女にすれば亡妻の後釜を狙ふやうに思はれるのは心外だ。しかも時が經つにつれて動き難くなって來る。一方で二人の遺兒を置き去りにすることも出來ない。進退窮まったといふ譯だらう。

 しかし藤三郎は、「マヨサは近い内に東京へ行くよ」と亊もなく云った。下町に店舖つきの二階建を手に入れた。建物は戰前からのものだが、少し修繕すれば十分に使へる。半ば冗談ながら、そこで總菜屋でもやってみないかと勸めたら、一も二もなく乘って來たのだと云ふ。何とも呆れた話だ。

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2010年05月18日

忘れ水 七

「こないだ、めぐりあひといふ羽多岐の同窗會誌を見てゐたら、島田雪子さんの手記が載ってゐたよ」
「何か書いてゐたか」
「例えば、ここに林檎がある。確かに赤くて固い實があるように見えるが、實は蠟で出來たものかも知れない。中身は全部腐ってゐるかも知れない。そのまま誰も食べずに朽ちて行くかも知らんし、喰ってみたら酸っぱいかも分らん。實際、ものの存在ほど不確かなものはないと云ふんだ。

 音樂もさういふもので、例えばベエトホヘンの何とかって曲が確かにあるやうに思ふが、實際にベエトホヘンがどんな曲を頭に描いてゐたかは誰にも分らん。ベェトホヴェンが本當に書いた通りの樂譜が印刷されてゐるかも分らん。

 藝術家といふのは、さういふ不確かなものを確実にするのが仕事だが、聞く方の人にもやはり同じ努力が必要だ。しかし毎日生きてゐる我々にもやはりさういふ覺悟がないと物は見えんと云ふのだな」

「つまり物はただ在るんぢゃなく、ありありと見えるやうな心の働きがなきゃならんと云ふんだらう。あれの親父さんを笠掛病院に招聘したことがあるらしい。そしたら親父さん、自分が病院へ行ったら島田醫院の患者は誰が診るんだと尋いたさうだ。むろん病院で診ますって答へたら、笑って、患者は俺が診るんだよと、さう云って斷ったさうだ」

「病院は患者なんか診ずにカルテばっかり檢てゐるからな。その傳で行くと、彼女もプロのピヤニストになったら、自分のピヤノは誰が彈くんだらうと思ったのかも知れんね」

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2010年05月17日

忘れ水 六

「そのお母さんていふのは、君が實のお母さんを亡くしたあと、君が引き取られたあとのお母さんなんだらう。君は母親には惠まれたよなァ。ところで、タカさんの方は、もう大丈夫なのか」

「この際全身を修理してもらふつもりでゐたんだが、久代のことでさうも行かなくなった。だいたいあの家は慢性的な榮養失調みたいなもんだったんだよ。ほら、毎月放生會なんかやってるぐらゐだから、四足はもちろん、魚もあんまり食はない。ほらほら、やうやく榮養が來たみたいだぞ」
 藤三郎に鮎の鹽燒が、廣見に鰻の白燒が泳いで來た。

「タカさんがよほど榮養に氣をつけてゐたみたいだが、サヨサなんかもあれだな、小さい内にちゃんとした物を喰はなかったから、あんな風な弱い體になっちまったかも知れん」
「教育もさうだが、榮養なんてものは大人になってからぢゃ身に附かんのぢゃないか。俺なんか、いくら喰っても腹の周りに溜まるばっかりだ。玄米に一汁菜もいいが、聖田の場合は量も全然足らなかったみたいだからね」
「初めて聖田へ行ったとき、サヨサは蒼い顏してふらふらだった。俺ァあんまりかはいさうだったから虎の子の罐詰を全部置いて來たぐらゐだ」

「その所爲かどうかは知らんが、今は我が家でも上田家風のカレーといふのを開子がよく作ってゐる。出汁も鰹節や昆布煮干で摂るさうぢゃないか。あれはやっぱりサヨサの祕傳なのかな」
「今はマヨサが同じやうにしてゐる。最初は苦かったり薄かったり、あまり旨くもなかったが、近頃はそれなりの味が出て來た。不思議なもんだなぁ。今はマヨサが芳江に仕込んでゐる最中だ。家だの傳統だの、さういふ風に繋がって行くもんだと思ったりしてなぁ」

「しかしこれは獨り言なのだが、茅葺の離れは市に呉れてやるつもりなのか。たぶん解體されて、どこかへ持って行かれてしまふのぢゃないか」
「これも獨り言だが、詰まらんことをするもんだ。人の住まん家なんか殘してどうしようといふんだらう」
「何も殘らないより増しだと言ふんだらう。しかし博物館といふのは墓場にしか見えんね。それも幽靈でも出ればまだ見物なんだが」

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