2010年05月22日

忘れ水(竟)

「いつも久代はマヨサが來るまで起きて來ない。起きても寢た振りをしてゐる。それがあの日は起きてゐた。マヨサを待ってゐたんだと。鐵も久代に纏はり附いて離れようとしない。芳きや美代さもぐづぐづと學校へ出ない。久代の方が牀に戻ったから、仕方なしにみんな出掛けるやうな恰好になった」

「やはり何か感じるんだなア。子供たちもみんな親を亡くしてゐるし、とくに芳江ちゃんと鐵坊は亡くしたばかりだ」
「出掛けに牀を覗いたら、目を開けてる。やはり手術が心配かと思って、なぁに心配するな、任せておけって身振りをしたら、自分の胸を指して、何か拜むやうな振りをするんだよ。何か頼むときの癖なんだよな。俺が今度は口で、心配するな、安心しろと云ったら、ニッコリと頷いたんだよ」

 堤の上へ出た。川は暗いが、甲岳の向かうに星空が見える。
「近い内にタカさんが來る」
「おぉ、體の方は戻ったのか」
「あぁ。日曜には子供たちも連れて聖田へ行きたいと思ってゐる」
「納骨か」
「決まったら改めて知らせる」

 暗闇がせせらいでゐた。妻に後れ、子に先立つことも出來ない。深い底に沈んでも彼岸に至ることはない。旅寢も叶はず、戀しい瀬々に果てもない。行き暮れた男がせせらいでゐた。

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2010年05月21日

忘れ水 十

 彼女には好きな男がゐた。一時は眞面目に結婚まで考へたやうだが、相手が刑事事件を起こして沙汰止みになった。

「どこかで聞いた風な話だな」
 この春、畫家紛ひの詐欺師が虚實綯交ぜの醜聞に騷がれたばかりだった。藤三郎によると、男は畫家志望で欧羅巴へ渡ったことがあり、戰後しばらくは獨逸に抑留されてゐた。歸國したあと、二人は雪子の勤め先の商社を通じて知り合ったらしい。

 ところが男の浮気癖が止まない。女の家を轉々として歩くやうになった。彼女も男といふものを知らないし、男にも彼女の剛さに負けるところがあった。男の出入りする高名な未亡人は畫家だの詩人だのを侍らせるパトロンとしても有名だった。折悪しく警察が阿片常習の嫌疑で内偵中だったため、男も飛んで火に入る夏の蟲になった。別の女に借金してゐるのを口實に逮捕され、告訴があったため起訴された。
 
 ところが男は保釋中に首を縊って死んだ。雪子が退職願ひを出したのもその頃だ。幸ひにゴシップ記事も彼女に觸れないが、或は會社に迷惑が及ぶのを虞れたのかも知れない。
「おい、外に出よう」
 藤三郎は立った。
 
「サヨサも知ってゐたのかな」
 彼女は島田雪子に便りを二度書いてゐたと言ふ。
「退職届に妊娠出産のためと書いてあった」
 中央通りを生臭い風が吹き降りて行く。その先に織姫と彦星が見えた。

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2010年05月20日

忘れ水 九

「しかし瑶代さんがゐなくなったら、家事はどうする。開子が手傳ひに行くと言ってゐるが、大した役に立たんことは俺が保證してやる」
「そんなことはないが、芳江が飯ぐらゐ炊くと言ってる。もし駄目なら通ひの賄ひに頼んでもいいし。いづれにせよマヨサの代はりはゐないんだ。今までのやうに任せ切りといふ譯にも行かんが、何とでもなるし、しなきゃならん」

「島田雪子嬢が出入りしてゐるといふ噂もあるやうだが」
「ついでに俺と結婚するといふ話まで出てるやうだ」
「それならば言ふが、さういふ噂がマヨサを居づらくしたといふことはないのか。世間には彼女を後妻のやうに言ふものも多いぞ」
 追加の膳が來た。紫蘇の葉、茄子などの天麩羅に、鮑の酢の物。

「俺は再婚なんぞしないし、そんなことはマヨサだって百も承知だ」
「片想ふ、あはひ白玉、數へつつか、俺の取り越し苦勞なら結構だがね。しかし島田嬢との怪しげなゴシップが何度も聞えて來るのは怪しからん。いったい誰がどんな料簡で流してゐるんだ。それを當のお前に尋くのも何だがなァ」

「彼女は中央病院の産科を受診したさうだよ。産科なら頭痛や盲腸ぢゃないだらう。遇々待合室で見掛けた名探偵が得意の推理力でも働かしたんぢゃないか。當らずといへども遠からずって處だね」

「やはり妊娠してゐたんだね。なるほど、彼女にすりゃ隱すつもりもないが、しかし實はかうかうしかじかと世間に吹いて囘るやうな話でもない。ぢゃあ父親は全體誰なんだといふ話になると、そこへニヤニヤした男がゐる。言ひたいヤツには言はしておけってことか」

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