2010年05月25日

蛇の目 三

 湯殿駅は南口を出た。
「いつ引っ越したの」
「先週。兄の子が大きくなったし、私、小姑でせう。ゐづらくなったといふ譯でもないんですが」
「ふぅん。この邊りも物騒になったから氣をつけないとね」

 つい先日も強盗殺人があったばかりだ。男が情婦を殺したあと、女の預金を降ろさうと試みたが、銀行窗口の機轉で檢擧された。女の屍體が浮かんだのが由水川で、ちゃうどこの先の邊だらう。男には詐欺の前科もあった。

 商店街を拔けたところで、「ここを眞っ直ぐ、由水川に突き當たったら、そこを左に百メートルぐらゐ。私、ちょっと買物して來るから」
 敏子は、さう云って鍵を寄越した。
「何も要らないよ。握り飯でもあれば十分だ」
「その御飯がないのよ」
 敏子は肩を竦め、驛の方へ駈け出した。

 家は長屋風に三軒が竝ぶ貸家の新築で、一番奧に田ノ岡孝一、敏子と兄妹の表札が掛けられてゐた。入口の三和土も未だコンクリが濕ってゐるぐらゐに新しい。間取りは八疊二間にダイニングキッチンまで附いた所帶向き。結婚するつもりで部屋を選んだか、或は選び序でに結婚する氣が出來たか。

 敏子は市役所から歸ったあと、急いで出掛けたものらしく、箪笥部屋の壁にどぶ鼠色のスーツが掛けられてゐた。青疊の匂ひは良いが、朝から閉め切った部屋に防蟲劑やら何やら。換氣しようとカーテンを引いたら、物干しに一枚だけ肌着が吊るしてあった。人を挑發するにしては寒々しい意匠の代物であった。

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2010年05月24日

蛇の目 二

 敏子は北側の眞ん中の席を選んだ。小さな窗から外が見える。日が山に隱れ、暗くなった木立に誰かの影が映ってゐる。
「ね、今度、家に御食事にいらっしゃいませんか」
「あァ、そりゃ、いいね」
 坂前は生返事しながら、農業を營むといふ田ノ岡の實家を想像した。
「これからぢゃ、何う。だって、半人前ぢゃ、足らないでせう」

「もう遲いし、迷惑だらう」
「誰に。私なら、いま一人暮らしよ」
「へぇ、さうだったの」
 しかし變だぞ。敏子の住所は田ノ岡と同じな筈だが。腕時計を見ると、まだ六時と少し。

 思案してゐると、「へい、お待ち」狭い卓上に燒き飯と珈琲、ケーキが竝んだ。「濟んだら聲かけておくれよ。もう店は閉めておくから」
 女主は足が惡いらしく、よたよたと跛行して厨房の奧へ消えた。

「ご主人、タクシーの運轉手をされてたんですって」
 敏子は燒飯にソースをかけ、それをスプーンで掻き混ぜた。その動きに合はせ、卓上の乳房が揺れ動く。
「えェと、そのご主人て、あの女將さんの」
「えぇ、それが事故を起こして、入院なさってゐるんですって」
「なるほど。それで早仕舞ひして、見舞ひにでも行くつもりかな」

「仲の良ささうな御夫婦で、羨ましい」
「しかし、いやに詳しいぢゃないか。この店はよく來るの」
「實はね、ちょっと風邪氣味だったから、晝休みにお醫者さんへ行ったのよ、島田醫院。そこで彼女に鉢合はせしたといふ譯。色んな話をしたはよ」

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2010年05月23日

蛇の目 一

 敏子のヒールがコツコツと隨いて來た。聲美人と云ふ言葉があるかどうか。そんな言葉があったら、敏子は間違ひなく聲美人だらう。坂前はそんな馬鹿を考へながら、「飯でも喰はうか」と誘ってみた。敏子は横に竝び、「今日はそのつもりで參りました」と、大きな白い齒を見せた。さうだったっけ。さう言へば、今日は何と誘ったか、もう忘れてゐた。

 附き合ひ出してから三月にもなる。上司の田ノ岡から、「いきおくれの妹がゐる。君より二つ年上なんだが、附き合ってみないか」と誘はれたのがきっかけだ。坂前は四月に着任したばかり、敏子のことは知らなかったが、二枚目の田ノ岡からある種の期待を膨らましたのが間違ひの因だった。

 初めて逢ったのが翌日、坂前の公休日だった。市役所を引けた敏子と待ち合はせ、町の中をぐるぐると囘った。正直、色Kのお團子結び、大柄に地味なスリーピースを着込んだ敏子はどうみても坂前の好みぢゃなかった。ところが目を瞑ると、がらっと印象が變はる。柔らかな匂ひ、蕩けるやうな掠れ聲、控へ目なもの言ひ。まるで天國にでも誘はれるやうだ。

 見た目の美點は唯一、圓らな目つきだらうが、それもエキゾチックを通り超え、むしろ異星人に見えぬこともない。さういへば昔、こんな魔除け人形のついたキーホルダーを持ってゐた。御利益があったかどうか、そのうち彩色が剥げて來て棄ててしまった。

 萬事が損に作られた造形の綺なのだ。一方で二十六になる坂前も、そろそろ身を固める潮と言へば言へた。一人っ子の坂前にとって、両親と離れての寮暮らしは、仕事に馴れるほど不便と寂しさを募らせてゐる。

 北口のアルプスへ入った。もう少し洒落た食堂もあるが、今はこんなものでよい。素を出して反應を見ろ、とは田ノ岡自身のアドバイスだった。
「へい、いらっしゃい」
 ハワイ生まれだといふ丸々と肥えた女主は、二度目の二人を憶えてをり、愛嬌のあるソプラノ聲で迎へた。しかし、「弱った。御飯が一人前しきゃないね」と云ふ。おいおい、もう夕飯の時間ぢゃなかったのかい。

「ぢゃ、一人前でいいよ。それを二つに分けて、その代はりに珈琲とケーキを二人前。こっちはハングリーだから、ハバハバで頼んだよ」
「あいあい、さー」
 主は氣を附けの敬禮を眞似た。


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