2010年05月31日

蛇の目 九

 田ノ岡と二人で島田醫院を訪れたとき、雪子は白い寢卷のやうなものを着てゐた。坂前が身分證を見せながら、「上田久代さんを、ご存知ですか」と訊ねると、雪子は寢起きらしい顏で、「はい、存じてをりますが」と應へたあと、 何かしら不吉なものを覺えたのか、こちらを窺ふやうに凝っとしてゐた。

「今日は、お逢ひになりましたか」
 田ノ岡の問ひに、雪子はへなへなと下へ蹲った。さうして右手で口を覆ひながら、「はい」と頷いた。

 父親の島田醫師によると、雪子は妊娠二十數週、安靜が必要だとのことであった。後日改めて聽取となったが、それに據ると、彼女はその日の朝、九時頃、勤務するKK株式會社の笠掛本社に顏を出した。退職願ひが五月初めに出されてゐるが、決算のキ合で延び延びになり、つひにその前日まで働いてゐた。

 退職の挨拶を濟ませたあと、その足で由水下の上田藤三郎宅へ向かった。しかし社長の上田が不在なことは承知してをり、豪雨の中をわざわざ訪問した理由については、上田の妻である久代が羽多岐高等女學校の一期後生であり、かねて訪問しようと思ってゐたのだと言ふ。

 この事実關係に間違ひはなささうであったが、町には煩い噂も流れてをり、知能犯係にも樣々なネタが持ち込まれてゐた。その多くは雪子が一服盛っただの、その強談判が心臟麻痺を起こしただの、やれ眞犯人は大貫瑶代だのとお定まりの探偵物であったが、中には藤三郎と雪子に情交關係があったとする噂まで含まれてゐた。

 いづれにせよ田ノ岡は病死と思料する旨を報告、擔當の檢事も同樣に處理した。「我々は刑事システムといふ俎板の上で料理してゐる刃物に過ぎない。お造りを食ふヤツはゐるだらうが、その刺身は胃袋の中で融けちまふだらうよ」と田ノ岡は云ふ。

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2010年05月30日

蛇の目 八

 ちょっと思想にかぶれたやうな男でな。正月に歸省したはいいが、親から勘當されて頼るところがない。それも包帶をぐるぐるに巻いて、松葉杖を突いたやうな憐れな姿。デモに參加して警官に毆られたと云ってたが、本當は何うだか。親父たちは男の親に義理があって、奴を一月ほど家に置いてやった。

 ところが、そいつが東京へ出たあと、敏子が流産した。病院から報せがあって飛んで行ったら、青い顏で寢てる。一人で川っ縁を歩いてゐて腹を冷やしたらしい。通り掛かりの百姓がリヤカーで運んでくれたから良かったもんの、運が惡けりゃどうなったことやら。敏子は蒔いたヤツが誰か口を割らんが、いづれ出鱈目の宛どころを殘したまま行方知れずだ。

「それきり忘れた振りをして來たし、親父たちも觸れないやうにして來た。しかし病室で一人寢てた、あいつの顏が忘れられん」
 田ノ岡は珍しく呷った。その妹思ひが傳はり、坂前も怒りが込み上げて來た。「夜這ひみたいな風習があったとは聞きますが、やはり親に責任を取らせる譯には行かんのでせうな。しかし恩を仇で返すとは怪しからん男です」

「あいつ、今朝早く飯櫃を返しに來た。元氣がないから、やっぱり振られたのか、駄目だったのかと思ったり。風邪を引いたとかで市役所も休んだ。こんなことは初めてだは。さっきカミさんが覗いたら大したことはなささうだがね」
「さうでしたか。いろいろ自分勝手ばかりで申譯ありません。しかし、この
先の話なら、御心配には及びません。こんな男を信用してくれた彼女には感謝してゐます」
 田ノ岡の話に乘せられた觀はあるが、もう迷ひのやうなものはなかった。

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2010年05月29日

蛇の目 七

 虎風荘の前に田ノ岡が立ってゐた。坂前を認め、長い腕を振り上げた。ダンディな普段着姿が如何にもよく似合ふ。
「やぁ、敏子のやつ、風邪を引いちまってね」
「風邪、ですか」
 坂前は目を落とし、田ノ岡が空の風呂敷を持ってゐるのに氣附いた。

「家内が内職してゐるんだよ。洋服の寸法直しってやつさ、そいつを今、届けて來たところなんだ」
 田ノ岡は風呂敷を拂って見せた。そんなことより昨夜のことが露れたかどうか、そっちの方も氣がかりだ。
「風邪って、如何なのですか」
「それが誰かから感染されたらしいんだよ」
 
 田ノ岡はカラカラと笑ひ、「どうだ、久し振りに飲らんか」
「はぁ、自分からもお話があります」
 どうやら年貢の納め時だ。梅雨も中休み、もう茹だるやうな暑さ。田ノ岡は薄いシャツの胸を摘んで煽り立てた。裏通りにある一軒は名も知らぬが、幾度目かの馴染みだ。

「で、どうだい、敏子との話は進んでゐるのか」
 田ノ岡は冷やしたお絞りで手を拭った。「いや、昨日は何とはなし浮き浮きしてたもんだから、ひょっとしてと思ったんだが」
 兄として尤もな亊だ。坂前は座り直し、ある程度正直を話した。むろん昨夜の玄關での一件、ブードゥードールの件は除いて。

「正直を云ふと、本當に自分の妹かなと思ふときもあるんだ」
 と田ノ岡は笑ふ。さうして、「敏子から聞いてゐるかどうか知らんが」
 そこへ麦酒と枝豆が來た。

「今度の話がどうならうが、俺は變はらんつもりだ、いいか」
 二人は麦酒を酌み交はし、直ぐに胃の腑を揉み解した。 
「あれは終戰の翌年だから、敏子が十九の時の話だ」
 田ノ岡家に二十四五歳の男が寢泊まりしたことがあった、と云ふ。

 
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