2010年04月18日

檜扇 六

 放課後の玄關ホールを歩いてゐるとき、どこかからピアノが聽こえて來た。その摩訶不思議な音に引かれ、音樂室の小窗を覗き込んだら、久代と同じ水兵服を着た學生ひとり、ピアノに向かってゐる。アップライトのピアノが大きく見える、小さな體。その夢見るやうな顏。初めて見る島田雪子だった。

 歸りに羽多岐の驛前をうろついたが、田舎町にはピアノどころか、樂譜さへ置いた店がない。あの曲は何だったのだらう。づっと後年、ジムノペディ第1番といふのだと知ったが、その頃は譯の分からない熱に浮かされた。

 本人にでも尋けばよいものを、相手は一年上級でもづっと大人びて見えた。放課後は音樂室に籠るか、圖書室で本の蟲になってゐるか。とても安直に近寄れた氣色ではない。同じ學生とも見えぬ姿に憧憬さへ覺えた。

 雨の日に尾け囘し、羽多岐の驛に見送ったこともある。彼女は笠掛町の名醫として知られる島田清吉醫師の一人娘だとも聞いた。しかし間もなく戰爭が激しくなり、學徒の動員が始まる。久代も學窗を離れ、父親を亡くした。母校は歸らぬ青春の彼方へと消えた。

 忘れてゐた名を思ひ出すのは、藤三郎と一緒になった後のこと。今、その島田雪子がピアノを捨て、故郷へ歸った。吾れ十有五にして學に志し、三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知り、六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に從ひ、矩を踰えず。

 雪子の母親は島田醫院で産婆をし、順子といふ名を持つ。學を修め、一人前になると、心の平靜を得、自分を辨へて來る。しかしさうなると難しいのが人の言を容れることだ。人は耳順ふて初めて自由を得、しかも世間と折り合ふことが出來る。順子の父親がさう願ひ、なほこと名づけたといふ。

 及川の街道から西へ五粁ほど、砂利道の果てに聖田の村が見えて來る。芳しい香りは田舎の馨水、おんぼろバスも通ひ、權兵衞さの家には電話も引かれた。車は寺の脇の懷しい空き地へ滑り込んだ。

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2010年04月17日

檜扇 五

 久代は渡邊の助手席に乘り込んだ。子供たちは後ろ、芳江、鐵、美代子の順に座った。留守番の瑶代に見送られ、出發。

 車で聖田へ行くには、東の及川から山道を迂囘、半時間はかかる。車が街道を右に曲がるとき、門前に佇む瑶代の姿が見えた。渡邊に、
「折角のお休みなのに、御免なさいね。向かうに着いたら、どうなさるおつもりなの」と尋くと、
「土曜から休んでゐます。どうぞ御心配なく」
 と素っ氣ない。

 芳江に、
「聖田はね、田圃以外は山ばかりなのよ。渡邊さんにお願ひしてハイキングにでも連れて行って貰ったら、如何う」と水を向けるが、
「五時に戻らないとマヨサのをばさまが心配しますから、山歩きは夏休みにお願ひします」だと。
 隨分先の永い返亊だ。鐵がニヤニヤしてゐる。

 さう、大きな世話を燒く前に、自分の心配をした方が早い。かうして子供たちを連れて里歸りする。思ひもかけなかった幸せではないか。美代子はもちろん、芳江や鐵も、もの心つく前から苦勞を重ね、久代などより遙かに勁く逞しかった。さう思ふと涙が溢れさうになる。

 あれこれ思案する間に、及川の橋を渡った。とつぜん渡邊が、
「羽多岐まで自轉車で通學されたのですか」
 と尋く。その通り、雨の日も風の日も、聖田と羽多岐を自轉車で往復した。
「えぇ、片道で二時間近くかかるんですが、それでも歩いて電車に乘るより早いのですもの。この心臟も昔は丈夫だったのよ」

 革靴を履き、水兵服を着て得意な時期。それが變はったのは十三四、島田雪子に廻りあった頃だらうか。

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2010年04月16日

檜扇 四

 聖田へ行く朝、チチーッといふ鳴き聲がし、欅の枝がサッと搖れた。鳥の影は見えず、木の間に白い空。美代子は納屋の前へ行き、その重たい戸をよっこらしょった。高い敷居の内は薄暗く、積み肥の香りがプンプン。ひんやりした土間は譯の分らぬ道具で一杯、見上げる天井は梁の縞模樣。

 美代子はジグザグに抜け、北側の壁へ。斜めの梯子段の上に四角い穴がポッカリと見える。美代子についてギシギシ云ひながら、茅に手の着きさうな屋根裏へ。四方に小窗、青葉の風がそはそはと頬を撫でて行く。

 美代子は「しっ」と指を立て、東の小窗まで猫のやうに這った。さうして窗に首を入れながら後ろ手においでおいで。鐵も胸踊らして窗邊まで這ふ。美代子は「ほらね」と窗の外、斜め下を指した。梁の上に枝を編んだ巣が出來てゐた。まだ粗い鉢形、鐵のびんたほどもある。卵はないが、美代子は「とつぎ鳥だよ」と云ふ。

 巣の下が徑、眞向かひに生垣の切れ目、その向かうに美代子たちの離れがある。人の家に近いから烏や蛇が來ないと踏んだのだらうが、まさか屋根裏から覗かれようとは。鳥の淺智慧に嗤ひながら振り向いてギョッ。四角い穴から芳江の生首が出てゐた。
「ここにゐたらおいてきぼりよ」
 と白い日除け帽がなかなかのお洒落だ。

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