2010年04月24日

檜扇 十二

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 卵が一個、出來た。箸で摘めるほど小さく、ぬらぬらと光ってゐた。觸ってみたいが、美代子が止めた。鐵、「芳きに言はん方がいい」「なぞえ」「喰ひよる」「喰はねぇ」「さうかえ」「さうぞえ」

 とたんにひゃっと背中が寒い。そぉっと振り向くが、芳江の首はなかった。さうなると寂しい。今日は學校から早めに歸り、「風邪を引いた」など云って自分の部屋へ籠ってゐる。ピアノの音も出て來ない。

 ところが離れを覗いたら、圍爐裏端にゐた。風邪でもお化けは怖いらしい。「川へ行く」鐵がさう云ふと、默って下駄を履き、一緒に來た。川原は曇天に温い風、小學校の近くでは童ばかり、大勢が釣りをしてゐる。

 土手に近い叢に一本、葉に毛の生えた木があった。紅い實を附けてゐる。美代子は「家にも同じのがある。久代をばさが植ゑられた木ぞえ」と云ひ、實を取って鐵の口に入れた。ほんのりと甘い、久代母ちゃの味がした。

 芳江はと見ると、灣處を見つけ、そこへ屈み込んでゐる。鐵たちなど見てゐないのは好いが、東から釣竿を持った二人、その後からもう一人、こっちへ近づいて來る。

 先頭の二人は帽子を目深く被り、ゆっくりと來る。怪しい目だ。惡さをしに來る。芳江は知らず顔をして、涼しい水を眺めてゐる。

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2010年04月23日

檜扇 十一

 父と母、産院へ行く。芳江も誘はれたが、ピアノの稽古があると嘘をついた。本當はピアノなんか何時でもよい。ただ赤子を孕んでそはそはする父母に腹が立つだけだ。「夕方には歸る」、父は母の手を取って出かけた。獨りになると無性に戀ひしい。意地惡な自分に腹が立つ。見上げる神棚に護摩札が見えた。机には晒しの腹帶と蝋燭もあった。

 芳江は蝋燭の一本に火を燈し、片木の上に立てた。かうすれば元氣な赤ちゃんが産まれる。かはいい弟が出來るんだよ。芳江は二遍禮をし、二遍手を拍った。「どうかかはいい弟が出來ますやうに」と願ひ言をし、疊へ手をついた。それから部屋を出、ピアノ教師の家へ行った。蝋燭が倒れ、腹帶が燃え出すのも知らずに。

 やがて炎は机を焚き、煙を噴き上げた。石の地藏樣が咽せ、錫杖を振り上げる。熱い、熱い、助けてくれと。その叫び聲に久代は奮ひ起きた。夢だったか。冷や汗がぐっしょり、心臟が激しく高鳴った。

 先月の末、市役所のホールへ、市内七つの小中學校から各學年一人づつ、計六十三枚の繪が展示された。その内の一枚が芳江の水彩畫。學校から案内があり、子供たちを連れて觀に行った。「笠掛地藏」と題されたその繪は全體に紅く、鬪ふ阿修羅王にも、赤ん坊のようにも見えた。

 その繪が夢にまで現れて來たやうだ。子供たちのこと、瑶代母娘のこと、藤三郎のこと、色々と想ふ内に夜が明けた。今日からは週末の放生會を控へ、寺は持齋に入る。

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2010年04月22日

檜扇 十

 真っ暗な屋敷に戻った三人は身包みを剥がされ、離れの石風呂に連れ込まれた。瑶代の遣り方は普通とは逆だ。先ず一段高くなった湯に漬けられる。湯船は大人一人やっと入れる廣さだから、芳江が入ったに美代子が沈み、その股座に鐵が乘る寸法だ。熱からず寒からず、人肌に浮かんだ三人は、まさに江のヨに猪の子二人の圖。

 あられもない肌着姿の瑶代、薄暗い電球に鬼の形相で、先づはふやけ切った鐵を洗ひ場に扱き倒した。磨く糠袋の匂ひに、見えぬ目で何だと廣げた手が乳房に當って挫ける。疊一枚の浴室に漏れる忍び笑ひ。外は眞っKな木立に誰もゐない母屋、まるでお化け屋敷だ。

 翌日、納屋の巣が大きくなってゐた。番ひの黄鶺鴒が替はる替はるやって來ては營々、巣を拵へてゐる。芳江も一人でピアノを彈くのが恐いか、暗くなると離れへやって來る。母屋から徑を傳って離れの庭へ入ると昨夜の風呂場が張り出てゐる。續いて背戸が見え、その先に菜園。戸の外れた厠もあるが、糞するときは恰好が惡く、雨の後はポチャンと釣錢が返った。

 背戸を入れば廣い土間の南に開かずの玄關、左手、竃や調理臺の手前に三疊の納戸、屋根裏へ上がる階梯が見える。右手は南から六疊間、八疊間と續き、八疊の戌亥に神棚、手前の眞ん中に圍爐裏。座る位置は決まってをり、圍爐裏の南は土間側から順に芳江、鐵。北側に瑶代、東の土間側の板敷きに美代子と薪。空いてゐる西側は、大人になったら鐵ちゃが座るのだと美代子が言った。

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