2010年04月27日

檜扇 十五

 この月の第二日曜は寺の放生會だ。前日土曜の夕刻から村の會衆が集まりだし、順に風呂場で潔齋する。その後は精進備へと稱し、精進揚や酒で心身を潤す。何のことはない只の宴會だが、この寺では佛亊を除く最大の行事になってゐる。タカの代になって徐々に増えた人數が、龜吉になって女衆まで加はるやうになった。

 夜更けまで居殘った男たちは宿坊に寢泊まりし、中には飮み明かす剛の者もゐる。明朝、鼠や川魚、蟲など山川に放って御終ひ。權兵衞さの鴨汁、招かれて行けば、はぁ、鴨肉どころか野菜ばかり、權兵衞さの鴨汁、と謠ひ、山の神樣に感謝する。

 夕刻になって空が曇った。久代は奧ツ城を抜け、誰も通らない道を登った。小丘へ上がると寺が見下ろせる。父も好んでこの場所へ來た。その仕草、言葉の切れ端が過ぎって行く。その面影もありありと殘るが、その人生は何もなく、何亊も起きなかった。

 あるとき、村に捨て子があった。久代より二つ三つ下、五つ六つほどの子童だった。澤の水を飮んだところで力盡き、巌にぐったりとしてゐた。父が見つけて湯漬けを喰はせ、宿坊へ寢かせた。冬も近いのに薄汚れた間服が臭く、久代には恐ろしい餓鬼のやうに見えた。近づくことも出來なかった。

 暫くして巡査が來た。棄てた親が見つかったといふ。別れ際、その娘は見送りの久代へ、手にしてゐる物をくれた。父がその子に與へた蜜柑だったが、食べずに握ってゐたらしい。ぬるぬると氣味が惡かった。蜜柑は久代の手を抜け、三和土へ轉がった。

 父は拾ひ上げ、「ありがたう」と久代の手へ戻した。見上げる娘の顏、悲しさうな父の顏を忘れることが出來ない。娘は巡査に引かれて去った。父と暮らした十七年は、まことに儚くあはれに消えた。

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2010年04月26日

檜扇 十四

 翌日、美代子が幼稚園を早引けした。いつも一緒に歸る鐵は一人、美津繪の川上の家へ行ってみた。砂利の道を上がり、後家さんの家を過ぎる。垣根が繁って内が見えないが、入口の前へ來たとき、建物がないのに氣附いた。美津繪と暮らした家がない。庭の隅にあったちふしの木もなかった。思はず「かあさ」と呼ぶが、聲が出ない。桃の木が一本だけ、風に搖らいでゐた。

 いじんさんしゅの鶯が、梅の小枝に巣を張って、十二の卵を産みました。ひとつ、ひよどり、ふたつふつがらぼし、みっつみさどん、よつよなか、いつつの醫者どん、むっつむくろ、ななつ難儀な花ちゃんが、コレラの病氣にかかられて、石炭酸をかけられて、おっかさんの涙は血の涙、寺はどこどこ河童寺、河童の尻にゃ子がでけた、その子がななつになるなれば、金の屏風を立てられて、お茶をいっぱい買ひなされ。

 この道はなんといふ通り道、天神樣の御通り道、ちょっと通してくださいな、この子のななつの御祝ひ日、お札を納めに參ります、梅と櫻を合はせてみたら、梅はすいすい騙された、櫻はよいよい賞められた、ことしの尾花はよい尾花、植ゑてよかろか、摘んだほがよかろ、耳になったらすっぽんぽん、あたいもかたっしゃらんかな、いいやまぁ、そんならおげん前の通りを通っとが太か金棒で打つがな、そんなら通してあげもんがな、鐵。

 朝起き空を眺むれば、小さな小鳥がめをと連れ、鳥さへめをとの世の中に、哀れ主さんただひとり、あたいとあんたは沖の船、遠く離れてゐるけれど、こころとこころは錨づな、波風荒れても切れはせぬ、泣こかい飛ぼかい、泣こよっかひっ飛べ。美津繪は桃の花が咲くと蓬を摘み、ふっのだこといふ團子を作ってくれた。

 そんなことを思ひ出しながら河原を下り、家へ歸った。離れには誰もゐない。納屋を上がると芳江がゐた。こちらも早引けしたらしい。卵が二つに増えてゐた。「美代ちゃは」「熱があるから寢てるはよ」「どこ」「離れの納戸」「見に行かう」「見ない方がいい」「なぞえ」「おかちめんこになってるから」「おかめちんこか」「おかちめんこ。ぶつぶつがうつるから」

 離れの瑶代も、「美代子は熱出しましたから、そこさ寢てますぞえ」と鬼門の納戸を指した。久代がゐない間、みんな南の六疊に寢てゐるが、納戸はもとから母娘の寢間だった。瑶代は「なぁに、三日でなほりますぞら」とも。

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2010年04月25日

檜扇 十三

 急に小便がしたくなった。ともかくも逃げようと思ふが、芳江は動かないし、美代子も同じ。帽子の二人が怒るとか笑ふとか、そのきっかけがないと、どうにも動きやうがない。

 ここは一番小さな自分が毆られる他はない。さう思ったら金玉が縮んだ。その前に濟まさうと智之鉾をひっぱり出すが、縮んでうまく出ない。

 そこへ石礫が飛んで來た。一粒は叢へ、もう一粒は灣處へ落ちて手走った。前の二人が芳江を狙った。ひどい亂暴者のやうだ。當たらないと見るか、だんだんと近づいて來、たうたう灣處の向かうへ着いた。

 運悪く、そこに大石があった。鐵の顔ほどの石が、泥から顔を覗かしてゐる。そんなものを投げられて堪るか。鐵の小便どこの騷ぎではない。するとそこへ、「おぉい」と呼ぶ聲がする。

 向かうの釣りをしてゐる内の一人が呼んでゐる。「こっちへ來い」と云ふやうに手を振ってゐる。

 かうなりゃ仕方はない。芳江の代りに毆られるかと思ったら、後ろの一人が前の二人に追ひ着いて來た。
「馬鹿、そんな岩が持ち上がるか」
 と笑ってゐる。なるほど、さうだ。鉄砲水に流された大磐かも知れない。前の二人が掘り出さうとするが、さうは行くか。

 後ろの子は前の二人を止めに來たらしい。芳江は水面の飴んぼに感けてゐる。美代子がそこへ駈け寄った。とたんに弛んだ智之鉾からぽたぽた、あとは勢ひよく溢れ出した。

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