2010年04月30日

わたり川 一

 笠掛の町は遙か有史以前の昔にまで、その起源を辿ることが出來る。水と肥沃な土地に惠まれた扇状地の周邊には、幾つか縄文人の集落した跡が遺されてゐる。萬葉集にも、鳥目山、かしけやらむに、水のにごれる、と防人の歌が遺されてゐる。廣見は頭の中で原稿を再現しながら、雨の坂道を上った。

 かしけやらむ、といふのは當時の東國訛りで、歩いて歸らう、といふやうな意味だらう。當時、鳥目山には馬を所有するほどの農民が住んでゐたのだらうか。この百姓は、おそらく洪水か何かで道が流れ、仕方なく馬を下り、徒歩で太ヶ谷邊りまで歸ったと、そんな風な光景が想像される。

 防人が廢止されるのは平安初期であるから、この歌はたぶん奈良時代のものだらう。さうだとすると、その頃の笠掛には、少なくとも朝廷から邊境の警備に驅り出されるほどの人口があったものと考へられる。

 もう少し旨く話せないものか、と我ながら思ふが、大人相手に、しかも市の嘱託といふ身分で話すとなると、學生相手に講義するやうな譯には行かない。學者なら自分獨りが責任を負へば濟むだらうが、今は大袈裟に言へば市役所を背負ふ立場だ。閑散とした大ホールが目に浮かぶと、ますます氣が重くなった。

 市役所に着いたが、雨は止むことを知らず、ポーチの屋根からも滴り落ちて來る。大ホールに着くまでに下半身が粒濡れになった。大ホールとは言ふが、舊廳舎跡のバラック建て、知らぬ者が見れば何かの格納庫だと思ふだらう。

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2010年04月29日

檜扇 十七(竟)

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 文筺に唯一、タカの手で記された一葉があった。短いが、父の亡くなった日のことだ。次は我が身とも覺え、書き置いたものかも知れない。このとき久代は女子通信隊に勤め、東京の宿舎にゐた。

 早朝、自警團員くる。午前七時、寛文、笠掛に出立、病院見舞の爲なり。鎮守樣、昨夜の空襲で負傷せられたる由。序で地鎮祭の代用の爲。近頃は神樣も佛樣の手を借ると言ひて笑ふ。颯爽たり。

 翌日の記事、きのふ、敵機来襲。うち一機、撃墜せられ、甲岳方面へ落下せる由。徹夜にて搜索、機體鹵獲せるも、搭乗員、いまだ補足するに至るべからざる由。戸締り嚴重にし、濫りに外出すべからず。なほ發見せる者は直ちに通報すべき旨、通達あり。

 結局、父は歸らなかった。翌日、數百の遺體とともに羽多岐の齋場で燒かれたのを、タカが木の乳母車で引き取りに行った。久代は白い骨の殘ったといふ遺骸と對面することさへ出來なかった。

 何かの客が歸ったあと、タカが部屋へ來た。
「どうだね」
「お蔭様で。すっかり御厄介になってしまひました」
「それなら、よかった。今、權兵衞さのところから言傳が來て、あとで藤さが來るさうだよ。子供たちが晩御飯を作って待ってゐるんだと」

 改めて年老いたタカを見、久代も涙含んだ。
「何だよぉ、縁起でもない」
 タカは腰を降ろし、机上の紙切れを取った。その頬からも一筋、光るものが滴った。初めて見る母の姿だ。

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2010年04月28日

檜扇 十六

 日曜日、瑶代の言ふ三日が經ったが、美代子はまだ寢てゐる。厠へ行くのを見ると、赤いブツブツが消え、おかめちんこも治ってゐる。鐵は東の格子窗から覗き込んで、「早く出て來い。卵、五つになってるぞ」美代子は布團の中から「六つになったら、いくぞえ」と掠れ聲を出した。

 晝頃、離れへ藤三郎が來た。美代子がゐないのに氣附き、「美代ちゃはどこぢゃ」と納戸の戸を叩くが返事が無い。ガラッと戸を開け、上掛けを剥いで、「假病つかふとは太ぇをな子ぞら」美代子はきゃっと丸まったが、藤三郎は赦さず、「こえたごぼうでへっくらけぇすぞ」美代子、堪らず土間へ降り、圍爐裏の板敷へ轉がり込んだ。

 二人が入ると晝飯も賑やかになったが、藤三郎は新香の茶漬けを掻き込み、
「あとで聖田へ行って來るは。明日は歸るから、マヨサ頼んだよ」「奧さ、歸られるずか」と美代子。「なるべくなぁ」と藤三郎、忙しげに飛び出した。

 瑶代も忙しい。久代のゐぬ間に大仕事を片附ける氣か、母屋の竹垣を編み直し、庭木の剪り揃へ、何時の間にか厠の戸も附いてゐる。美代子には、「風呂の湯、入れ替へろ」と。鐵も手傳ひ、芳江も加はった。

 先づは水を抜き、洗ひ場と湯船を擦り上げる。次に水を汲んで滿たすが、井戸は庭の南隅にあり、手押しポンプで汲まなければならない。手桶に「三十杯、いや百杯、三人で二時間もかかるよ」と芳江が音を上げた。湯船半ば、ポンプの芳江がくたばり、えっちらと水桶を運ぶ美代子も腰碎け。「けばいつかうとは太えをなごぞら」大威張りの鐵も足を滑らせて轉んだ。

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