2010年03月19日

ちふしの木 十

 病院は歩いて行ける距離だが、藤三郎は車を遣した。瑶代も氣を利かして見送らず、「ぢゃあね」、小さく「いってらっしゃい」、美代子の聲を後に背戸を閉じた。

 家の丑寅にある一角は、はじめ門のつもりだった。門と言っても、ただ生垣の切れ目があるだけなのだが、そこは鬼門だと注意してくれる人があった。藤三郎は聞いたなり忘れたやうだが、久代の病後に生垣を増やし、入口を東向きに造り直した。

 その迷路の端に車が待ってゐる。運轉は渡邊、豫科練出身の海軍二等飛行兵曹殿、藤三郎が最も信頼する男だ。久代を後ろ座席へ乘せると、ゆっくり這ふやうに砂利道へ出る。これを百米も行って街道を左折、S字状の緩やかな坂を上った中腹、病院はその左側に在る。

「渡邊さんも、御體の方は、大丈夫ですか」
「はぁ」
 渡邊は笑んで逸らかし、病院坂へ折れた。久代よりも年上の筈だが、ひょろっと丈の高い好男子。藤三郎に據れば、康夫の故郷にはブニセといふ目のギョロついた蟹のやうな種族がをり、これに對して縱長の好男子をヨカニセと呼ぶ。渡邊はヨカニセの部類に入るが、西郷隆盛などブニセの剛毅とヨカニセの長身を併せたがゆゑに珍しいさうだ。

 もう豫約は濟ませてゐるやうで、渡邊は眞直ぐ二階へ上がった。看護婦室の脇で待つことになり、二人は長椅子に掛けた。嘗て陸軍に接収された建物は爆撃で破壞され、假小屋風に補修されたものが、敷地を東に移して建て直された。その土地を提供したのが藤三郎であるらしい。

 やや高くなった窓の外に樅の木が竝ぶ。その向ふに春霞。どこやらでちっちっちーっと川原雀が鳴いてゐる。今頃、藤三郎は何をするやら。瑶代母娘も何をしてゐるだらう。久代は籠の中の鳥になった。

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2010年03月18日

ちふしの木 九

 その人は黒い喪服のやうな出で立ちで現れた。疎らな客席に向かって一禮すると、鍵盤の前に座り、やや仰向いたまま始めた。分散和音を奏でる初端にトリルを彈き亂し、會堂に失笑と溜息が漏れたが、構はずに進んだ。

 調子を轉じながら繰り返される主題が高揚し、右と左と互みに打ち鳴らす鐘が悲鳴のやうに上がった。湧き上がる濤が大地を薙ぎ拂ひ、減七の和音が疊み掛けるやうに吼える。最期はピアニッシモが消え入るやうに靜止。

 續くアンダンテの蕩けるやうな至福、最終章の嵐のやうな狂亂が止むと、俄に雪が降り出した。さうしてアンダンテの無氣味なシンコペーションが地の底へと誘ふ。これが一臺のピアノと両つの手から出る響きだらうか。會堂は森と閑まり却った、と思ったとき、ぐぅと鼾のやうなものが鳴った。

 風が出たやうだ。敷居の向かう、廚が黒い口を空ける。その漆黒の中に、眞っKな塊が在った。小さな童のやうな姿は、河童のやうにも見える。ぬらぬらと光る體から、ぽたぽたと雫が垂れてゐる。

 ふたたび目を瞑ると、體が地震のやうに揺れ、噫と叫びたくなる。何か良からぬことが起きる。全身が脈打ち、息苦しくなった。金縛りにでもあったやうに身動きがとれない。突如、「久代」と藤三郎の聲。同時に眩しい光が差し込んだ。

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2010年03月17日

ちふしの木 八

 久代が結婚した翌年の正月、その晩は大雪だった。夕べには歸るといふ藤三郎のために、久代は夕飯の支度をし、湯を沸かして待ってゐた。すると日の暮れ頃、庭に白いものが降り始めた。五時六時と過ぎるが、いつかな夫は歸らない。たうとう庭は眞っ白になった。

 風呂釜に薪を足し、寄附きの雪を掻く内に體が火照り出し、火鉢のでつい微睡んでしまった。いまはしい夢に魘され、ふと目覺めると、目の前が眞っ暗だ。おまけに體の節々がじんじんと痛み、熱があって息苦しい。

 やうやうのことで廚まで這ひ出し、電燈のスヰッチを搜してゐると、バタンと表の木戸が鳴った。藤三郎だ。雪を踏む音がし、背戸が開いた。眩しい燈りが差し込む。
「どうした、久代」
 電燈を翳した藤三郎が飛び込んで來た。
「何だか分からないんです、あなた」

 ともかく褞袍に包まれ、背に負ぶはれて町へ向かった。冷たいものが目を塞ぎ、藤三郎の大きな背が一歩一歩と沈んで行く。
「歸りませう。何も見えない。あなた、死んだらいやよ」
 久代は譫言にそんなことを云ったらしい。

 氣附いたのは病院の牀の上。貨物自動車が雪に滑り、電信柱に衝突したのが停電の原因だと言ふ。結局久代はそのまま入院。藤三郎は夕から朝までベッドの脇を離れることがなかった。

 が、病は寛けても幽かな痕跡が遺った。藤三郎は何も言はぬが、久代自身がよく知ってゐた。想へば婚約から半年足らず、人竝な夫婦生活は終はりを告げた。以後、夫は何も出來ぬ妻に不平ひとつ零さず、すべて久代の思ひ通りにしてくれてゐる。久代はもう夫の背に乘ったまま、地の底へ沈む他なくなってゐた。

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