2010年03月25日

かんな 三

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 芳江には薄い火傷の跡があった。ウルの上着をつけてゐたため大亊には至らなかったが、お腹の一部と、右脚の附け根から膝小僧の邊りまで、痛々しく變色した斑が見える。服に手を掛けたとき、突き返すやうな仕草をするので、久代は反射的に抱き寄せた。

 藤三郎によると、火傷は火事によるものだといふ。芳江の實母は出産が因で亡くなり、幸ひに無事だった芳江は湘南の兼崎へ養女に出された。養方は久代の遠縁である根津家とも縁の深い商家らしく、芳江は實子のない夫婦に良くかはいがられた。學校の成績も良い上、ピヤノが上手で、モツァルトのソナタなど暗譜で彈きこなす腕前だとか。

 ところが留守中の家が火事になり、歸り着いた夫婦が芳江を救はうと、煙の出てゐる家へ飛び込んだ。そこへピヤノの稽古から戻った芳江が、やはり火中に入らうとした。上がり框に轉けたところ、ちゃうど駈けつけた消防隊に救はれたものの、危ふいところだった。出火の原因は、最後に家を出た芳江の不始末だらうとも言ふ。

 幸ひに火傷は輕度で濟み、暫く親戚に預けられてゐるのを、例によって藤三郎が見つけた。火事のあったのが二月、ともかくも春から二年に進級する芳江は、落ち着くべきところへ落ち着くのが好い。久代は「どう思ふ」かと藤三郎は尋くが、もう西の間で寢んでゐる娘を駄目だと追ひ返す譯にも行かない。

 それに藤三郎の母親もお産が因で亡くなってゐる。芳江とは違ふ死産であったが、いづれにせよ藤三郎が單なる思ひ附きで芳江を連れて來た風には思はれなかった。


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2010年03月24日

かんな 二

 ところが鐵の上にもう一人、四つ上の姉が出來た。七つといふ年齡、しかも女の子だといふこと、これにはさすがの久代も不安を覺えた。自分の七つを思ひ出しても、生意氣盛りを繪に描いたやう、大人顔負けの惡智惠を働かしてゐたやうに思ふ。鐵のことは仕方ないとして、さう人の子を安請け合ひするものではない。

 しかし藤三郎の云ふのは、かうだ。三つの子がかはいく、七つの子がかはいくないか、男なら陽で、女なら陰か。それは、久代、御前の目で見るしかないだらう。どうだ見てみるか。はい、見てみませう。

 さうして幾晩かしたあと、本當に娘が來た。廚の戸がトンと鳴り、これは渡邊の合圖だから「はい、どうぞ」。開いた戸の向かう、暗闇の中に渡邊の姿。いつもと違った樣子に目を凝らすと、いきなり娘が現れ出で、土間に立った。樂しく夕飯を摂ってゐた瑶代に美代子、鐵がポカン、久代は吃驚、娘は眞っ蒼。

「急いだもんだから、車に醉ったやうです」
 渡邊はさう云ひ、上がり口に風呂敷包みを置いて退散。娘は鼠色に濃紅の水玉ワンピース、裾の邊りがKく濡れてゐる。置き去りを喰ったまま、ぬっと立ってゐる。

 さっと瑶代が立ち、風呂敷を退け、娘を上に上げた。さうして「お風呂、
もう少し温めて參りませう」と外へ。
 風呂敷の中身は衣類やら洗面具やら。取り敢へず着替へをと風呂場へ連れて行った。初め強情に抗った娘も、裸の附き合ひをする内に軟らかくなり、髪を梳かしながら、「名前は」と尋くと、小さく「よしえ」と云った。

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2010年03月23日

かんな 一

 鐵が上田家へ來て一月が經った。母親の美津繪は鐵が來たその翌日に息を引き取った。看取りの醫師に據れば、血の病を患ってゐた上に腦出血まで起こし、自力で寢臺に上がったことさへ不思議だといふ。

 美津繪は幼時に父を失くし、母と兄を長崎の原爆で亡くしてゐる。血液の病氣も恐らく放射能の所爲だらうといふ。戰後は母親の郷里で下働きなどしてゐたが、暫くして湯殿の旅館へ嫁いだ。間もなく男の子を儲けたが、過勞の夫を交通事故で失ひ、自らも病の牀に臥した。

 多額の借金のあった旅館を手放し、僅かな貯金を頼りに川上の借家へ移ったが、病の寛けぬ内に家賃さへ滯るやうになった。貸家は藤三郎の會社が管理、母子へ斡旋したのも渡邊であった。が、未亡人の大家から店立てを喰らひ、同郷の渡邊を頼った時は既に手遲れだった。

 遺骨は夫とともに羽多岐に眠り、一部は故郷へ還された。問題は遺された鐵のことだが、當座は藤三郎が後見人になり、最善の道を探らうといふことになった。鐵はカンナと訓み、母親の美津繪はカナと呼んでゐた。ともかくも退院の初めから久代の手元にゐるが、まるで手のかからぬ不思議な子だった。

 藤三郎や瑶代にもよく懷いてゐるし、體の一囘り大きい美代子とも姉弟のやうに見える。まして湯殿に向ふ母子を見送った久代は、それが偶然だったとは思はれず、もはや鐵を手放すことなど想像もつかなかった。もしかしたら病氣の代償としての、天の惠みではないか。そんなことさへ考へるやうになった。

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