2010年02月15日

あんでら 二

 久代は止まらぬ涙に咽せた。藤三郎は嚢の内を捲った。縫ひ附けの白布に、笠掛町落合參の參拾參番地、菊池屋謹製とある。
「帽子屋さんですね、鎧町通りの」

「さう、今はもう燒けて無い。十年ほど前に製られたものらしい。それから」
と、今度は手巾を廣げて見せた。こちらも滲みの目立つ使ひ古しだが、縫ひ刺しで「ねづ かよこ」と讀める。
「それで根津姓の家に。でも根津姓の家は幾らもございませうに」

「全部、當ってみたよ。ここらの根津さんはお宅が最後という譯だ」
「カヨコさんといふお名前に心當りはありませんが、母なら何か承知のことがあるかも知れません。そのご主人と仰有る方、御歳は如何程でいらしたのでせう」
「母親の方は三十と少し。十四五の娘と、その下に男の子がゐる。だからご亭主の方は四十ぐらゐかと思ふ」

「裁判所にお勤めなのですか。その根津姓といふのは、ひょっとしたら舊姓ではないのですか」
「さうだらうね。裁判所には根津姓の該当者が見つからなかった」

 藤三郎は落膽もせず、久代の根津家について根掘り葉掘りと質し、母の歸りを待たずに腰を上げた。
「少し氣が樂になった。近いうちにまた寄せて貰ふよ」
 と、嚢から珍しい罐詰を出し、置き土産にして去った。

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2010年02月14日

あんでら 一

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「ほら、手傳はうか」
 ふいにした聲に振り向くと、大きな荷物を背負った男、十八の久代からすれば相當な年輩に見える男が近づいて來る。

「いえ、もう大丈夫ですから」
 と手にしてゐる筍を拔いた拍子に少し蹌踉めいた。男は目近まで來て、「そら見ろ。力が入らないぢゃないか」
 淺黒い顔で笑むが、怪しげではない。

「ここらにお寺があるだらう」
 汗を拭ひながら、邊りを見囘した。
「はい、その」と、久代は二人のゐる竹藪の上を指した。
「母の住持は生憎と留守をしてをりますが」
「へぇ、尼寺かい」

 戰爭が終って一年。澤歩きの登山客を見なくなって久しい。久代は珍しい寺の賓客を案内した。

 男は冷茶を飮み干して、
「他にご家族は」
 と、シャツの胸から紙片を取り出した。
「二人ぎりでございます」
「それは難儀な。さぞ御不自由だらうなあ」
「はぁ」

 出された紙片には、笠掛市落合一の三番、上田藤三郎と書かれてゐる。澤沿ひに二里ほど下った町の眞ん中だ。
「實はね」と、男は背負って來た嚢を開き、「この持主を搜してゐるんだよ」と、リュックに水筒、藥籠のやうなもの、ひどく汚れた手巾を取り出した。
「女の方ですか」
「さうだ」
 上田藤三郎と名乘る男は持主について物語った。

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2010年02月13日

鐘の音 十一(竟)

 高度三千、靜かにスティックを押し遣り、整然とした航跡へ近づいた。空母、輸送艦の群の周りを無數の戰艦、巡洋艦、驅逐艦が固め、悠然と東へ向かってゐる。

 目標、空母エセックス型、目標を定め、
「一○一八。われ突入す」
 反轉して、降下體勢に入った。機はブルブルと分解しさうなほど奮へた。

 が、二千、千五百、まだ砲火が見えない。遅い。やうやく高度千、目標が眼前に迫ったとき、突然に視界が掻き消えた。目くるめく光の中、激しい渦に呑み込まれた。
「早よ當らんかっ」
 思はず呻いたとき、ボーンと鐘が鳴り、康夫は跳ね起きた。

 厨の柱時計が止み、靜かになると、誰か來る。
「康夫さん」
 襖が少し開いて良子。
「どうしたの。明日は發つんでせう。お風呂に行ってお出で。今、文子も出るところだよ」
 押入から着替を出してくれた。

「兄さんは、遲いでせうね」
「智行さんはいいから、もう一度だけ話しておやり。今晩が最後になるんだよ」
 良子の顏を見れば、何をとは尋くまい。庭先からカラコロと下駄の音がした。

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