2010年02月21日

あんでら 八

 小僧は暫く置いてみようといふことになり、三年が經った。藤三郎は一週と間を置かずに顔を出してゐたが、或る日、改まった背廣姿で、しかも同じ年頃の夫婦と一緒に現れた。
「まぁ、今日は改まったことで」
 タカも氣取り、
「なかなか好い天氣でありますな」
 と藤三郎も調子が違ふ。

「はじめまして。この男の友人、いえ、本日は後見人として參りました。大倉廣見と申します」
 男は自己紹介し、
「こちらは開子、家内でございます」と小柄な婦人を指した。夫人はまるで天から降るやうに高い聲を出す。

 大倉の姓は笠掛では知らぬ者がない。戰前の知事であった大倉景見は久代の女學校の初代校長でもある。廣見はその長子であらう。久代が茶菓を出しつつ、「失禮ですが、落合の大倉樣でいらっしゃいますね」と確かめると、
「お前、存じ上げてゐるのかい」
 と、タカ。
「あの、大倉樣」
「あぁ、あの」
 と漸くタカも氣附いた。

「へぇ、有名なんだな」
 藤三郎が冷やかすが、タカは構はず、
「その大倉樣がこちらの御親友でいらしたなんて」
 と無禮を云ふ。久代が袖を引くと、
「いえいえ、私の申し上げるのはね、上田さんは信州のお方、それがよくよく笠掛に御縁があったと、さう申し上げてゐるんですよ」

「全く、さうですね」
 廣見は白髪混じりの頭を掻きながら、
「實はこの男を知ったのは滿洲の、それも戰後のことでした」
 さう云って、傍らの開子と目を合はせた。
 大學の研究室にゐた廣見は徴兵延期の特典を受けてゐたが、いよいよ戰局の煮詰まった二十年春、技術将校を志願した。

 幼馴染の開子とは將來を契ってゐたが、「その約束は一旦反故にし、互ひにもし生き延びたらといふことにし直しまして」
 開子、「そのもしを報告するため、私たちは義父のゐる滿洲へ渡ったんですよ」
 婚約当時、廣見の母はすでに亡く、笠掛の邸は妹が預かってゐたといふ。

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2010年02月20日

あんでら 七

 とたんに影が動いてカラカラッと大きな音。久代は湯船を飛び出し、着物を抱へて厨へ逃げ込んだ。
 そこへ、お勤めをしてゐたタカが戻り、
「何の騷ぎだい」
「何でせう」
 慌てて着物を纏ってゐると、
「やや、驚かしてすまん」
 と、勝手口に聞いた風な聲。タカが點けた燈に、藤三郎がゐた。

「その山向うに炭燒き小屋があるでせう。そこの親父に頼まれまして。そこの末っ子が、今年十四になるんですが、なかなか本も讀める、心も賢いといふので、よい奉公口はないかと」
「それが例の稚兒さんといふ譯ですか」
 とタカが笑ひ出した。

「仰せの通り。お寺はどうだと勸めたら、願っても無いことだ、ぜひ口を利いてくれと。ところが肝心の當人はと見ると、これが炭燒きの真っ黒な小坊主、いやいや小僧、まぁ何でもいい、ともかくもこれぢゃお寺の品格上まづからうといふので、いったんは斷ったんですが、今朝ほど又、どうにかならんかと頼まれまして、なかなか諦めない。とり敢へず薪を賂に、目立たぬやう日が暮れてからお目見えと」

 連れ出したまではよかったが、馴れた山道を一足先に着いた小僧は、薪を釜口に置いたついで。その上へ載って中を覗いたところ、風呂桶に漬かってゐる久代を見て居竦んだ、といふ譯であった。
「その小僧さんは、どこに」
 タカが尋ねると、
「こんな恐ろしい家はイヤだって」
 一目散に逃げ出したと云ふ。

 山家けて、たにこけたるや、おひ兎。洗ひ髮の久代はさぞかし化け物に見えたことであらう。藤三郎が汗を拭って大笑ひになった。


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2010年02月19日

あんでら 六

 夕刻、久し振りの湯が沸いた。この寺の湯は、故障の多いタカが仕舞湯を好み、若い久代が先につかふ。こんな山奧でも薪を集めるのは大變だから、泊まりの客でもない限り、春になると水浴びで濟まし、夏が來て、それが藤三郎のお蔭で久し振りの湯になった。

 薄暗い土間に着物を拂ふと、汗の臭ひが蒸れ返る。爪先から旋毛の眞ん中まで磨き上げても、これが藤三郎の温もりかと思ふと胸が躍り出す、疼きの入り混じった不思議な氣持ちだった。それにしても藤三郎はなぜ薪なのだらう。

 せいせいと洗ひ流し、風呂桶に浸かり込んでも、胸の中から迸って來る。久代は同い年が夢見るやうな結婚を、これまでに考へたことがなかった。三十路のタカが髮を削いだやうに、久代も世に背くであらう。いや、ものの小説や詩歌を讀み過ごし、まだ知らぬ内から飽いてゐるのだ。

 しかし生身の戀となれば話がまた違ふ。焦がれるやうな思ひが久代のそれまでを吹き飛ばし、嘲笑ふかのやうに心中を跋扈してゐる。しかしいづれ叶はぬ戀には違ひなかった。藤三郎はずっと年上のやうだし、何も知らぬ青林檎など口にする筈も無い。賣女、女郎、年増盛り、艷めいた後家さんと、浮世の塵に磨かれた女は幾らでもゐよう。

 假初めに藤三郎の意に添はうが、あるひはタカの願ひに適はうが、久代がこの寺を離れる譯には行かない。腰を壊し、内藏を傷め、不惑を前に萬病を抱へ込んだタカを見放し、久代だけ幸せになれる道理など無い。

 さらさらと諦めのついた窓に鈍色の空が見える。しかも格子には黒い影が張り付いてゐた。それは人の影をし、じっと久代を見下ろしてゐる。

 久代はぎょっとなりながらも、どうせ闇の中、向うからは見えまいと、そっと體を浮かして試た。すると、
「こらっ、坊主」
 と、どこかから聲が響いた。

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