2010年01月24日

野邊 一

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 日本人の母娘連れらしいのが二人
 丘の斜面を上って來る
 直ぐ下の街道は ときをりソ聯軍が通る
 山傳ひに逃げても
 雨が降れば三日と持つまい

 が さういふ藤三郎も同じだ
 母娘の斜め上 林の窪みに倒れてゐる
 仰向けになった だらしない自分を見下ろしてゐる
 妙な光景だ

 銃も劒も有るが
 ひびの入ったらしい脇腹が腫れ
 二日續いた下痢に氣が萎えた
 彈丸は銃身に當ったのが跳ね
 盒を刺して止まった
 止まったのが運なら この先どういふことになるか
 それは神樣しか知らぬ

 母娘は覺束ない足取りで近づいて來る
 十四五に見える娘が 藤三郎に氣附き 足を止める

 お氣の毒に 海も近いでせうに
 と母親がをかしなことを云ふ

 ここは奉天に近い
 海まで百粁以上もあるではないか
 しかし娘も
 本當 何だか磯の香りがするみたい
 と眩しさうに空を見上げる

 空は白いが 見下ろすと本當に海だ
 その向うに故郷の山々まで見える
 夢ぢゃなささうだ
 この目に見えるんだから

 かうすれば助かりませう
 母親は 背にしてゐる嚢から紙包を出し
 藤三郎の手元に置いた
 さうして水筒の水を半分 藤三郎のそれに分けた
 二人して眠り地藏に手を合はせ
 丘の向うへ歩み去った
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2010年01月23日

笠掛物語

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 川岸の砂利道を、笠を被った若者が遡って行く。川上の山寺へ辿り着きたいのだが、もう邊りは山も空も辨へぬやうな暗さに、薄い麻衣を突き通すやうな寒さ。ふと見上げる若者の目に、陸の上の一軒家から漏れる燈りが見えた。

 はて、かかる荒れ野に人の住むものか。若者は疑ったが、香ばしい煙に引かれ、中を覗き込んで見ると、汚い形をした童が一人、圍爐裏端に飯を喰ふてゐる。若者が戸を叩き、一夜の宿を乞ふたところ、童は喜んで迎へ入れた。

 腹を滿たした二人はすぐに打ち解け、
「父母兄弟やいづくに」
「父はをとつひの秋、母はきのふの冬に往にき」
「父母失ひて淺きに、なんぞ樂しき」
「吾もいみじく窶れたらば父も母も苦しうこそ思はめ」
「迂闊に人を寄さば如何なる難儀にも遭はむ。心して身を護れ」
 若者が諭すと、童は、
「御坊も人におはせば、早う喰はれて父母の下に參りたうございます」と笑った。

 夜も更け圍爐裏の火が落ちると、忽ち甕の水も氷るやうな寒さに、二人は一つ牀にとも寢することになった。若者が熱心に説き明かす内、童の體から艶めかしく匂ひ立った。

 翌朝、一夜の煩惱を悔いた若者は、笠を欅の小木に掛け、川の水に入った。迷ひの元となった童も後に随いたが、すぐに足元を掬はれ、川の水に呑み込まれた。後を追った若者が救ひ上げてみると、うつくしいをとめに變はってゐた。

 ちはやぶる渡瀬の水に腰なづむ
 いもは忘れじ世のことごとに

 若者は修行の道を棄て、この邊りを切り開く祖となった。だからこの川を齋の水、訛って由水、この土地を笠掛け、のちにかさげと呼ぶやうになった。
posted by ゆふづつ at 11:58| 日記 | 更新情報をチェックする