2010年01月27日

野邊 四

 やがて日も傾き、寢牀を探す時分になった。が、何かに引かれるやうに歩みを止めないでゐるうち、ちらちらと瞬くやうな燈りが見えた。邊りはもう昏い。腹這ひになり、手探りに近づくが、もう少しといふところで消えた。

 さらに近づくと、木の間に荒い息が聞こえる。さきほどの母娘に違ひなかった。
「おい、俺だ。どうかしたのかね」
 女も氣づいたか、少し間をおいて、
「それは、でも、なぜ」
「それはこっちが聞きたくて追って來たんだ。こっちはお蔭さんだが、そっちの娘さんはどうだ。熱でも出したか」

 星明りに女の手が動く。娘を介抱するやうだ。
「たうとう、動けなくなりました」
 女は云ひよどむ。
 いづれ女の足、避難民の群から落伍したのだらうか。
「しかし、こんなところぢゃ仕方あるまい。町へ戻った方がいいのぢゃないか」
 と藤三郎は自分にも云ふ。

「私たちのことは、どうぞ。それよりも、關東軍は、もう司令官も参謀長も捕虜になられたとか」
「へぇ、さうだったのかい。道理でいやに靜かだと思った」
 藤三郎は寢床を探り當て、そこへ「いやっと」轉がり込んだ。

 木の間から白い雲が見える。よく見ると星の雲。まるで地獄の淵から見上げるやうだ。
「ご主人はどうした。二人で、これから、どこへ行く」
「私たちは主人と娘、それに下の男の子の四人で、この春、こちらに參りました」
 女はやうやう語りだした。
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2010年01月26日

野邊 三

 誰も彈き手のないピアノが悲しげな音を鳴らし、上昇と下降を繰り返す奇妙な音が頭蓋を驅け旋る。思はずに「母さん」と呻いた。すると青々と煌く川の向うに、寫眞でしか見覺えのない母親が現れた。

 黒い目と、少し皮肉っぽく笑んだ口元が、「どうした、藤三郎」と云ふやうに見える。
「お前はまだ死んぢゃゐない。さっさと歩いて還るんだよ」
 初めて見る、しかし懐かしい顔だった。

 思はず立ち上がらうとするが、ずしりと重い。體の感覺が蘇った。ふくの姿は消え、替りにさっと眩しい光が差し込んだ。もう日が西に傾いてゐた。母娘が去ってから、どれほどの時間が經ったらう。

 廣げた手の甲に何か硬い物が觸れる。さうだ。さきほどの母娘が水と鹽、それに氷砂糖を置いて去ったのだ。鹽も甘い、砂糖も甘い。水が身に染みた。柔らかに過ぎる風が涼しい。

 母娘は西北、奉天の方から來た。何處か、先を急いでゐるやうにも見えたが、最早ここに母娘の安住出來る地は在るまい。藤三郎にしても、いづれ俘虜か死か、どう轉んでもそのどちらかしかない。

 ともかくも跡を追ってみようと、重い體を起こしてみた。有り難い。何とか動き出した。窪地を這ひ出、母娘の進みさうな方へと踏み出す。母娘ばかりではない。この地には置き去りにされた無數の民、將兵が彷徨ってゐた。

 食ひ物が盡きれば、やがて荷を棄て、銃を棄て、帶革を棄て、最期には命を棄てる。現に星一つの若者が澤に突っ伏してゐた。水を求め、力盡きたか。顏が湿地に埋もれてゐる。

 屍など厭といふほど見たが、なぜか氣に掛かる。せめてもと骸を引っ張り上げ、土と青葉の枝で掩ひ隱した。
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2010年01月25日

野邊 二

 やがてピアノが鳴り出した。藤三郎が十七のときまでゐた、あの故郷の家にあった、いつも埃を被り、鍵の掛けられたままの古いピアノであった。

 舊家の妾腹に生まれた藤三郎は、五歳のときに實母ふくを失った。ただちに實父松五郎に引き取られたが、本宅には正妻テル以下、見知らぬ兄二人までがゐたから、幼い藤三郎の苦勞には少なからぬものがあった。
 
 兄たちは洋間に置かれた樂器を顧みることがなかったから、希めば好きに出來た筈だが、なぜか幼い藤三郎には禁斷の木の實のやうに思はれ、たうとう家を出る最後まで手を觸れることがなかった。

 中學を終へた藤三郎は、松五郎の他界を潮にふるさとを出た。放浪ののち戰爭が始まり、現役兵に合格。まもなく大東亞戰爭が始まり、大陸を轉戰、線のつかぬまま五年兵になってゐた。

 精鋭の多くが南方へ移される中、藤三郎は原隊のまま、ソ滿國境、さらには奉天へと移された。弱兵や新兵の訓練に明け暮れて半年、つひに八月九日の朝、東方からソ聯軍が押し寄せて來た。

 藤三郎は敵樞要部への斬り込み隊に配屬されたが、間もなく八月十五日、そのまま降伏せざるを得なくなった。何しろ相手は無盡藏の航空機に戰車、高性能の自働小銃まで持つといふ。一部無鉄砲組は飽くまで斬り込みを目論んだが、當の敵が素通りして肩透かしを喰ふ。

 奉天市街へ情報収集に出た藤三郎は、暴民との市街戰に遭って負傷。山野を這ひ囘った揚句、この窪地に身を沈めた。
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