2010年01月31日

野邊 七

 さぁ御馳走だぞ、ブレットダマイスに茸のコンソメ、どっちも中華風だ。と喉元まで出た臺詞を呑み込みつつ、母親には無理強ひに食はせた。娘の状態も思はしくない。熱がある上に、腹痛まで起こしてゐる。むろん食べられず、ときをり苦しさうに寢返りを打つばかりだ。

 母娘の目指す部落は、街道の直ぐ先、少し外れた森の中にあるといふ。夫の知人が農場主だといふが、終戰を境にどうなったか知れたものか。恐らくは物資も略奪され、邦人は殺されたか四散したか、いづれにせよ人の多い市街の方が安全には違ひない。

「まづは樣子を見て來よう。算段はその先だ」
「ありがたうございます。女の足でも一時間とかかりますまい。日本人の開いた農場でございますから」
 と、紙切れに地圖まで書いてくれた。

 治安の悪化に伴ひ、母娘は夫と下の子を殘し、この農場へ疎開したらしい。ところが市街戰が激化、文官には避難列車が出ることになった。母娘は奉天驛で乗り合はせ、やうやく一家揃ふことが出來たが、出發して間もなく列車が止まった。鐵道がソ聯軍の管理下に落ちたのだ。

「驛も強盜に襲はれたり、それは大變な騷ぎでございました。次の日に終戰の放送がありまして、もうみんな自棄のやうになりまして、中には氣の狂ったやうな人まで出たのです。私たちも下の子が熱を出したり、もう生きた心地も致しません」

 翌日、列車は新京へ戻されることになり、一家は知人のゐる奉天で降りた。ところがその知人が見つからず、下の子を連れて病院に向かった夫も戻らない。ともかくも親切な人のアパートを頼り、二日待ったが甲斐もない。ともかくも奉天を離れる譯にも行かず、母娘二人して戻って來たのだといふ。

 かうなれば、その農場とやらを確かめずには濟むまい。藤三郎は野草で重くなった腹を抱へながら、今度は南へ向かった。
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2010年01月29日

野邊 六

 空が白むと、母親は見違へるほど窶れてゐた。娘は目を閉じてをり、厭な熱でも拾ったやうに見える。しかし今は思案してゐる場合ではない。
「金はあるか」
「いいえ」
「ちょっと樣子を見て來る。晝までには戻るから、ここを動かずにな」
 とだけ云ひ遺し、西に向かった。

 丘を下り、街道を渡って、迷はぬやう斜面と原野を右へ右へと進んだ。間もなく滿人部落が見える。金があれば別だが、かうなりゃ仕方が無い。端の一軒へ飛び込んで小銃を翳した。

 痩せこけた爺さんと、孫か曾孫らしい幼女が轉けるばかりに驚くから、出來る限りに愛想笑ひを浮かべ、物を食ふ手眞似。ますます怯えた娘が、しかし賢さうに卓上を指す。蛙の浮いた味噌汁に燒饅頭が三つだ。有り難い。

 饅頭はポケットに、味噌汁は口に流し込んだが、その旨いこと。滋養が胃の腑に染み込む。こんな美味に出逢ったことはない。
「シェシェ、シェシェ」 
 この恩は死んでも忘れんぞと、片手に拜みつつ、村を一目散に飛び出した。途端にバリバリッ、聽きなれぬ自動小銃のやうな音だ。

 手近の高粱畑へ飛び込んで窺ふと、八路軍か、幌の附いたトラックが追ひ駈けて來る。さうは行くかと、背より高い畑の中を右往左往、まるで猿飛佐助だ。つひに母娘のゐる方、山地まで逃げ切った。

 饅頭三個ではどうにもならぬ。が、もう無闇に危險も冒せぬ。來た道を辿りながら、口に出來さうな野草や茸を拾ひ集めた。
posted by ゆふづつ at 22:50| 日記 | 更新情報をチェックする

野邊 五

「間の惡い折にと思ひましたが、こちらへ參りましたら、まるで別天地のやう。廣い道に公園のやうな町、内地の有り樣が嘘のやうでございました」
「内地は如何だ」

「それはもう、三月の十日に東京で空襲がございまして、私達は裁判所の官舎住まひでございましたが、そこも燒け出されてしまひました。主人と二人で逃げ惑ひながら、坂道を轉げまして、あまり熱いので用水桶の中に入りました。漬物のやうでございますね。夜空を見上げましたら、燒夷彈が花火のやうに降って參ります。邊りには黒焦げの人も。そのときにちゃうど敵の飛行機が眞逆さまに落ちて來たんです。主人と目が合ひましたら、ぼぉっとして、幽靈みたいな顔。それで、映畫みたいだなと、そんなことを云ふんです」

「東京がなぁ」
 初めて聞く話に藤三郎も魂消た。滿洲どころか、もう歸る祖國が無い。「しかし、どうして、こちらへ」
「夫がこちらの裁判所に轉勤になりました。新京のアパートにをりましたが、ここのところの騷亂になりまして、私と子供たちだけ、この先の村へ避難しに參ったのでございます」

「その村へ歸らうといふ譯だね。分った。明日は俺が負ぶってでも連れてゆかう。今はもう休んだ方がいい」
「どうぞ、私たちのことは」

 しかし女一人ではどうにもなるまい。夜氣に娘の寢息だけ聽こえる。少しでも餘力を作っておかねばならぬ。さう念じて瞼を閉じた。
posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | 更新情報をチェックする

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